ライフハックとしての一期一会
11月11日(月)晴れ
数年前、GWを利用して家族で那覇を訪れた。
那覇を訪れたらまずは首里城に行くのが王道なのはわかっていた。でも僕は何よりきれいな海や水族館を見に行きたかったので、「首里城はいつでも見られるんだから、まずは海に行こう」と家族に話したのを覚えている。
結果的には首里城には訪れることができてよかったんだけど、今思えば、当時の自分の考えはバカだったと思うしかない。あの首里城は火災により二度と見ることはできなくなってしまった。
文化財の火災といえば、夏に起こったパリのノートルダム寺院の火災を思い出す。でも大きく違うのは首里城は木造だったということだろう。石造りの原型はとどめているノートルダムに対して、首里城は跡形もなく消滅してしまった。
西洋の国に行くと、数百年前の建築物や町並みが普通に残っていて驚くけれども、木造が主で、災害も多かった日本だと街は変化せざるを得ない。今あるものが残ることはなく、いずれ消えてゆく。このどうにもできない寂しさや切なさから「侘び・寂び」という美意識が生まれたのだろうし、「一期一会」という発想も生まれたのだろう。
今あるものが、明日もあるとは限らない。今日会った人に、また会えるとも限らない。そもそも自分だっていつまで生きているかわかならい。
ある意味現代社会というのは、その当たり前の原則にあらゆる手立てで挑戦し、刃向かってきた。そのおかげで僕らは普段死を意識することは滅多になくなったし、自分のように「どうせいつでも見られるから」と後回しにすることに疑問を持たなくなった。
その副作用が昨今の災害や政治的混乱で、悲劇を大きくしているように思う。何か起こるたびにいつも語られるのが「想定外」という言葉だ。言い換えれば「こんなはずじゃなかった」ということだろう。
気候も政治状況も暮らしも、次々に塗り替えられていく昨今ゆえ、これからも僕らは「こんなはずじゃない」世界を生きることになるのだろう。そんな時だからこそ「一期一会」的なメンタリティーは持っていきたい。古くから伝わるこの手の言葉(概念)は、現代で受け取られているような道徳ポエムではなく、思うに任せぬ環境を生きぬくための精神的ライフハックだったに違いない。
「すべてに感謝をして生きなさい」的なことをいうつもりはないが、どんなに時代が進もうとも、この世が諸行無常であることは変わりのない事実だ。人々は安定を求めるが、環境は僕らに「不安定をいかに受け入れるか」しか求めていない。だからあらゆるものに対して「これが最後かもしれない」と意識の隅に置いておくことは、不安定を受け入れる上で重要だろう。これは技術でもありアートでもある。
結局のところ、有限性と価値はコインの表裏だということを「一期一会」は語っているように思う。再建された首里城にまた会えることを楽しみにしている。