リモートワークは働き方ではなく生き方である
7月27日(月)雨
最近のコロナ感染者急増で、また政府がリモートワークを要請してるらしい。
いやはや、コロナは秋くらいまでは落ち着いてくれるかなと思いきや、緊急事態宣言が明けてから2ヶ月持たず、夏前にまた自粛ムードになってきてしまった。
そんでもって次は、「ワーケーション」を推進したいらしい。
コロナが広がらないように在宅ワークを要請してるのに、一方ワーケーションで観光地に行けと…うーん、一体どうしてほしいのだろうか…。
まあそれは置いといて、リモートワークの先駆けとなる、オフィスにしばられずに働くスタイルがアメリカで広がっているという情報を、僕が初めて知ったのは2000年ごろだった。
オフィスではなく、カフェや旅行先でパソコンを開いて自由に働いているニューヨーカーに、当時学生だった僕は痛く感動し、将来はこんな働き方をしたいと、強く憧れたものだ。それ以来僕はリモート、またはモバイル的な働き方をずっと考えてきたので、リモートワークには一家言あったりする。
リモートワークも、ワーケーションも、根本は同じで、「どこでも仕事ができる」という一点に尽きる。人によっては、プライベートでも仕事に追われて嫌だというような意見もあるようだが、まさにオンとオフをファジーにすることによって、行動範囲を広げることこそが、リモートワークの利点でもある。
ビジネスもプライベートも、どちらも諦めることなく動ける自由を一度体験してしまうと、拘束時間とのトレードオフによって仕事をしていた頃の、機会損失の大きさに気づいてしまう。もしまだオフィス生活を続けていたら、今まで行けた場所には行けなかったし、会えた人にも会えなかっただろう。
リモートワークは、仕事の質や効率といった狭い範囲で考えるのではなく、(仕事を含めた)生き方全体の文脈の中で考えたほうがいい。行動範囲の拡張は人を豊かにする。そしてその恵みは巡り巡って仕事にも還元されることだろう。
たまにスマホやSNSが、昨年の今日撮った写真を通知してくるが、僕はまさに去年の今頃は、パリで「ワーケーション」していた。いや、実質的には展示という仕事もあったので、単なる「リモートワーク」なのかもしれない。もはやどっちでもいい。
国境が閉じられ、実質的に移動も制限されている今見ると、去年の自分がうらやましくて仕方ない。これも仕事も旅も同時にできるリモートワークの環境がなければできなかっただろう。
僕がリモートワークという概念を知ってから早20年、ついに政府までもが、リモートワークやワーケーションなどと言い出したのが、なんか感慨深い。
コロナ感染防止で在宅を求めながらも、観光には行って仕事しろというのは、あまりにも矛盾がありゃしないかと思わなくもないが、とりあえず政府が推奨してるのだから、できる人は沖縄などの南の島で海を眺めながらとか、山奥で温泉にでも浸かりながら仕事して、今までの働き方の概念をぶち壊してほしいと思う。
とにかくみんなオフィスを出よう。今こそ狭いの鳥かごの中から飛び立つ時だ。それがコロナ感染拡大防止にもなるし、来たるアフターコロナの時代への備えとなるだろう。
そんなことを書きつつも、まずは僕が家を出たくてたまらないのだが…トホホ。療養が終わるまでまだかかりそうである。