「アベノマスク」と「コロナ禍の日々」の価値
7月4日(土)曇り
けっこう前になるが、家にアベノマスクが届いた。
布でできた簡素なマスク、まだ置いてあるが、これをどうするべきか、迷っている。
安倍首相とアベノマスク
普段であれば迷わず秒でゴミ箱行きだろう。市場にマスクが戻ってきたのもあるが、何より見栄えがよくないのが一番の理由だ。とてもこれをつけて外を歩く気にはなれない。
最近の安倍首相の支持率低下の要因の一つに、あの小さなマスクによる「ルックスの悪さ」もけっこう響いているのではないかと推測している。マスクが小さ過ぎてフィットしていない安倍さんの写真を見ると、ネクタイが曲がった余裕のないサラリーマンのようで、とても頼りなく、かつ調子が悪そうに見える。
アメリカの大統領選ではルックス(印象)は重要な戦略の一つとなっていて、演説に合わせてネクタイの色まで厳選されているのは有名な話だが、安倍首相の側近とかで、アベノマスクをやめて普通のマスクに変えるよう、彼に提案できる人はいないのだろうか。ビジュアルを仕事にしている人間から見ると、あのマスクは損しかしていないように見えるのだが。
アベノマスクと、コロナに翻弄される日々の「価値」
話は飛んだが、なんにせよアベノマスクはダサいのでする気になれない。しかし、このマスクの「歴史的価値」を考えると、すぐに捨てられない自分がいる。
今回のパンデミックは、将来日本史や世界史の教科書に載るだろう。そしてきっと、当時日本政府から配布されたマスクとして、アベノマスクは博物館のショーケースに入れられるに違いない。そう考えると、こんなにちゃっちくてダサいマスクも、価値のあるものに見えてくるから不思議だ。
そして今年も半分が終わってしまったが、ほとんどの人にとって、コロナに翻弄されたさんざんな半年だっただろう。しかしこれも長期的スパンで考えれば、歴史書に乗るような、人類にとって重要な期間なのは間違いない。
この「ダサいマスク」も、コロナ禍の「不自由な毎日」も、時間的なスパンの見方を変えるだけで、価値が大きく変わって見えるのが面白い。
もうすぐ20年になろうとしているが、2001年に米国同時多発テロが起こった日、僕はアメリカにいた。崩れゆくワールドトレードセンターに戦慄し、自分の身も安全ではない状況(当時住んでいたフィラデルフィアにも飛行機が向かっているという情報があった)にビビりつつも、カメラを持って街を歩いた。
間違いなく歴史的な一日となるであろう今日という日(2001年9月11日)に、現地にいることに運命を感じ、これは「見ておかねばならない」と思ったのだ。
あの惨事がアメリカを含め世界の状況を塗り替えたように、コロナも世界を変えるのは間違いないゆえ、今は20年前と同じような感覚になっている自分に気づく。不意に世界を襲ったパンデミックに、人間はどう対峙し、どう変化したのか。それを現在進行形で「見る」ことができるのは、今を生きる僕らに与えられた価値なのかもしれない。
少なくともコロナに翻弄される日々が終わるまで、アベノマスクは捨てないだろう。アベノマスクといえども、必要となる局面が来る可能性は、まだ否定できないからだ。しかしだからといって、記念としてずっととっておく気にもなれない。ならばワクチンなり、特効薬なりができて、人類がコロナにケリをつけることができた時が、今までの苦労やストレスとともに、マスクをゴミ箱に投げ込んでやるタイミングなのかもしれない。
最近は新しい生活様式の文脈で、マスクもファッションの一部になるかもしれないという話もあるが、僕はそうならない気がする。なぜならほとんどの人がマスクをなる早で投げ捨てたいと思っているからだ。多分、安倍首相もそうだろう。