chignitta訪問02 -マンガ家だった僕と、永井博さんのイラストと甲斐先生の思い出-
7月25日(日)晴れ
1992年、中二の秋、初めて一人で都心に向かった。
その頃は将来マンガ家になろうと思っていて、「人生初徹夜」をしつつ週刊少年ジャンプの手塚賞に応募。入賞はしなかったものの、編集部の目に留まったようで、集英社からお呼びがかかったのだ。
神保町にある集英社では、足立さんという編集者が対応してくれて、「中学生で漫画を送ってくる人はけっこういるけど、君はその中でもずぬけている。このまま育てて16歳でデビューさせたい」というような話をしてくれた。
今思えば、おそらく半分以上は僕をやる気にさせるためのサービストークだったのだろう。しかしピュアだった中二の僕は、すべて額面通りに受け取り、もはや気分はマンガ家。将来は決まったと思いながら意気揚々と帰宅した。それからは足立さんにいわれた通りにマンガを描く日々だった。
そんな中、所属していた中学のサッカー部の副顧問に、甲斐先生という美術の先生がいた。当時は部活が心底嫌で、まったく行っていなかったけれど、甲斐先生だけは気にかけてくれて、いろいろお世話になった。僕の絵を見てくれたり、デッサンを教えてくれたり、その後高専のデザイン科に行ったのも甲斐先生のすすめだった。
甲斐先生が教えてくれた中で、一番大きかったのが、「これいいよ」と貸してくれた本だ。まずはエアブラシイラストの第一人者の松下進氏のイラスト集。さらにカラートーンの鈴木英人氏、そして今回Chignittaで個展が行われた、永井博さんのイラストを教えてもらった。
今思えば、上記のお三方は、甲斐先生が若かった時代、西海岸ブームとともに一世を風靡していたイラストレーターだったのだろう。僕はそのブームを知らない世代だが、ビビッドな風景が好きな僕は、彼らの西海岸テイストに完全に魅了され、マンガ家よりもイラストレーターになりたくなってしまう。その後マンガ用に買っていたケント紙には、イラストが描かれるようになった。
てことでマンガは描かなくなってしまい、集英社の足立さんには今も申し訳なく思っているけれど、人生のターニングポイントとはそういうものなのだろう。僕はその後イラストレーターではなく、グラフィックデザイナーとなり、今はアート活動も始めたが、その下敷きには間違いなく、あの時教えてもらったイラスト群がある。
Chiginittaで永井さんの原画を見て、当時の甲斐先生とのやり取りや、多感だった中学の頃の気持ちが蘇ってきて、胸がジーンと熱くなった。
改めて永井さんの絵を見ると、僕が影響を受けているのは、永井さんのミニマリズムなのではないか、と思うようになった。永井さんのイラストは、必要最低限の要素で、最大の効果が出るように構成されている。これ以上タッチが多すぎても、少なすぎてもダメ、そんな絶妙のラインが永井イラストの特徴で、対象は西海岸でありながら、構成は禅的なものを感じるのだ。
Chignittaで永井さんのイラストに囲まれ悦に浸っていたら、まさかの永井さんご本人が登場し、ポスターにサインをいただいたのは昨日の日記に書いた通り。
その後サインの行列に対応する永井さんを、近くからずっと眺めていた。
距離的には話しかけることもできたが、なぜか話す気分にはまったくなれず、ただ眺めていた。多感な時期に影響を受けた作家は、もはや雲の上の神のような存在だ。ここでへたに近づくよりも、神は神として、自分の中に存在してくれていればいいと思ったのだろう。
あの中学の頃から30年もたって、まさかご本人に会えるとは思っていなかった。よかった。また一ついい思い出ができたなと思いつつ、chignittaを後にした。
40年も生きると、今まであったことの答え合わせのような出来事がたまに起こるので面白い。中学を卒業してからはマンガをあまり読まなくなり、代わりにイラストやデザインに夢中になって今に至ることを考えれば、あのターニングポイントは必然だったのかもしれない。甲斐先生はお元気にしてらっしゃるだろうか。