「国ガチャ」と日本
カフェでのんびりしつつ、スマホを見れば、今日も戦争のニュースが流れてくる。梅雨にもかかわらず、最近は連日の快晴。初夏を思わせるような空は見ていて心地いいが、この空の向こうには、国を守るという大義名分の元、いつ死ぬかわからない戦いに、強制的に駆り出されている人々がいるのだ。
少し前に、「親ガチャ」という言葉が話題となった。「どの親の元に生まれるか」が、人生を大きく左右してしまうことを「ガチャ」に例えているのだろうけど、それなら「どの国に生まれるか」という「国ガチャ」もあるよなぁと、思わずにはいられない。
世界には、望まぬ戦いに強制的に駆り出される人々もいれば、国の体制によって自由がない人々、紛争や貧困に直面して、生きるために国を脱出せざるを得ない人々もいる。かたやカフェでのんびりコーヒーを飲んでいる自分もいる。その違いは何かといわれれば、ただ「どの国に生まれたか」だけでしかない。
最近は日本の将来を、真剣に憂う意見をよく見かける。30年以上停滞している経済に、急激な少子高齢化。生活は苦しくなる一方で、将来に希望が持てないと。中にはもう国外逃亡すべきといった、強行な意見も流れてきたりする。
わかる。確かに日本が問題だらけなのはよくわかる。
しかしそれでもだ、それを差し引いても、僕らは比較的、いやかなり、「国ガチャ」には当たっている、という事実は一度考えたほうがいいんじゃないだろうか。
少なくとも国家の状況が、生きる上で重大な障害にはなっていない。それだけでも運がいいほうであるし、むしろ日本に生まれただけで、だいぶ「下駄を履かせてもらっている」ことも間違いない。
だから日本に感謝しろ、みたいな感情的なことをいうつもりはない。ただ日本を一方的に悲観して暗澹たる気持ちで生きるより、そこそこ当たりくじを持っていることを自覚して、それを今後どう活かすかを考えるほうが健全なんじゃないだろうか。
ガチャの結果をうまく活用する以外、僕らに残された道はないのだ。