死んだ気分になって人生の価値基準を見つけてしまった
また死んだ気分になってきた。
移動が多かった一ヶ月。機材の入った重いバッグを抱えての移動がたたったのか、どうも背中が痛い。それどころか、だんだんと後頭部のほうもズキズキ痛みだしてきた。
背中の痛みは休めばおさまるだろうが、頭の痛みは場合によっては命に関わる。翌日、脳神経外科へ行き、人生二度目のMRI検査を受けることになった。前回受けたのは、ウイルス性の疾患で盛大に体調を崩した2020年。3年ぶりだ。
仰向けで頭を固定され、MRIのマシーンの中に流し込まれる。中に入ると、目の前に小さな鏡がついており、力なく寝ている自分の顔が見える。
MRIの鈍い電子音を聞きながら、そんな自分の顔を見ていると、毎回こう思うのだ。
「けっきょく最期はこうなのか」と。
もし自分が死んで、幽体離脱が起こったとしたら、きっとこんなふうに自分の顔が見えるのだろう。そんな「死んだ気分」の空間にいると、ひたすら人生や死について考えてしまう。
今後自分がどんな人生を送ろうとも、最後はこの状態。ただ仰向けになって消えてゆく。人は何も持たずに入ってきて、何も持たずに出ていくのだ。
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ただ唯一持っていけるのは、思い出くらいだろう。あの世にお土産は持っていけないが、思い出話くらいならできる。
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いやでも、考えてみれば思い出こそ旅の最大のお土産ではないか。
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「ならば、いい思い出がたくさんあれば、豊かに死ねるのではなかろうか」
という結論まで達したところで、MRIは終了し、僕はこの世に戻ってきた。
もう40も半ばに差し掛かり、僕も立派な「不惑」な年齢だ。そして脳や心臓のバグで、人生が突然終了してしまう可能性もなきにしもあらずな年齢でもある。
自分が死ぬ時になるべく後悔しないような、いつ死んでもいいような生き方にそろそろシフトするべきだろう。そんな態度がいわゆる「不惑」な年齢に適した生き方のような気もする。
ならば、価値基準は「いい思い出になるか」という一点でいいんじゃないだろうか。世には多様な価値観があれど、けっきょく最後はそれしかないんじゃないだろうか。
診断室に戻ると、MRIで撮られた自分の脳が貼られていた。自分の脳をまじまじと見つつ、ここにあとどのくらい、「いい思い出」という資産を貯められるだろうか…と海馬のあたりを見ながら思ったりした。
幸い脳にも血管にも異常がなかったので、無事帰路に。僕はもう少し生きられそうである。