伝説の2004年
どうも、yosuieです。
ザスパは今日17:00から、ホームで秋田と対戦。2点差以上で勝てば2位浮上という大チャンス。自動昇格圏に入れば、今までなかなか動かなかった周囲が何らか動き始めるかもしれない。そんな期待をしつつ、そんな雰囲気だった2004年を振り返ります。
ザスパにとってこの2004年というのは、今日までの20年間で最も輝いた年でもあり、注目された年でもありました。私個人的には、この年の3月からブログを始めました。最初のころはキャラの方向性が定まっていないことはさておき(笑)、この年JFLを戦うザスパのことを定期的に発信する場ができたわけです。
初めて「ザスパ草津」が登場した記事は、ザスパだけでなく当時同じJFLに所属していた群馬FCホリコシ(後のアルテ高崎)にも触れています。
こんな感じで観戦レポート的なものも載せていました。今はDAZNで中継もあるし、youtubeでハイライトも観られるし、プロアマ問わずいろんな方がレポートやレビューをSNS等でアップしていますが、当時は実際に観に行かないとなかなか試合内容や選手の特長も分からず。興味半分と、何とか世間にザスパを広めたい想いで投稿していました。
なので、当時ユニフォームサプライヤーだったユニクロからレプユニ発売を告知したり。
JFL時代はサカラグがメインスタジアムだったので、陸上競技場(現正田スタ)の改修の話に触れていたり。
・・・などと過去の投稿を見返していたら、こんなのが。
当時前橋育英3年の細貝(現ザスパ)がレッズの強化指定になったという投稿。
20年あまりの時を経てまさか実現するとは・・・。
さて、数々の伝説を作った2004年のザスパ、その1つ目がこちら。
JFLながら敷島に14,000人近くの観衆を集めた試合。相手は大塚製薬、同じ年にJ2昇格を果たす現在の徳島ヴォルティスです。当時はバックスタンドもなく、ゴール裏もなだらかな芝生席。今から考えるとどうやって入場したのか、ちゃんと運営できてたのか、(入場者数のカウント合ってるのか・・・)、とにかくザスパホーム戦史上最多観客数は、今もこの試合です。
そして伝説2つ目、念願のJ2昇格を果たすことになるのですが、一筋縄ではいかず、
最終戦、2点差負け以上でJFL2位が確定し、J2昇格圏内でフィニッシュできるザスパは、Jの門番HONDA FCの前にまさかの0-3で敗戦、3位となってしまいます・・・。
ヤキモキする状況でしたが「ほぼ2位」ということで、無事J2昇格が決定。拡大路線を目指すJリーグ側に、地方からJの象徴となっていたザスパを先鞭としたい思惑もあったのでしょう。
微妙な空気があったのも確かですが、それを3つ目の伝説で吹き飛ばします。
この年の天皇杯、順当に勝ち上がったザスパは4回戦でセレッソ大阪に2-1で勝利し、ジャイキリ達成。それだけでも充分すごいのですが、ハイライトは次の試合。この年J1を制した岡田監督率いる横浜Fマリノス相手に、依田選手の延長Vゴールで勝利してしまうんです。
ちなみにその試合、中継を見ていた私は後半くらいから体調が悪くなり、勝利を見届けた後トイレに籠るハメに・・・。2,3日食事もまともにできない状態で、あれは劇的な展開に体が耐えられなかったのか(笑)、ただの食中毒か何かだったのか。病院に行ったのはだいぶ回復してからだったので、結局原因ははっきりわからず、深く記憶に刻まれる試合となりました(笑)。
最後に、Jリーグ昇格を受けて記念に投稿したブログを転載します。
見上げれば、Jへの道 2002-胎動
7月。
きっかけは、草津出身である当時の上司の一言だった。
「地元でおもしろいチームがあるらしい。」
ホームページを見ると「ザスパ草津(旧リエゾン草津)」と書かれた、簡素なホームページがあった。監督(兼選手)には鹿島で活躍した奥野、GKは地元の名選手、元日本代表の小島。所属する群馬県1部リーグでは破竹の勢いで快進撃を続けているらしい。当時まだ日本のサッカーリーグに関する知識の乏しかったわたしにとっては、それがどのくらいのレベルなのか、はっきり言ってわからなかった。同リーグのチームには地元の大学やどう見ても草サッカーのような聞いたことのない名前が並んでいた。
そんな中で将来のJリーグ入りを目指すザスパは、ユニホームの真ん中に「UNIQLO」のロゴ、背中には「草津温泉」の文字が入ったレプリカユニホームをすでにネット販売していた。郷土意識の強いわたしはそんなチームに惹かれ、さっそくレプリカを購入し、地元群馬での新しい風の誕生に気分が高ぶった。
9月。
粕川コリエンテ戦を初観戦。グラウンドは粕川の村営グラウンド。どこにでもある土でできた普通の多目的グラウンド。そんな中でザスパの選手は奮闘していた。勝てば全勝で群馬県1部リーグ優勝が決定する試合。草津で働きながらJリーグを目指す選手達と名のある奥野、小島といった面々のおかげで、すでにこのときテレビ局も取材に来ていた。しかし、まだまだ片田舎の小さなサッカーチーム。試合中応援の太鼓を当時2歳の息子が叩かせてもらうアットホームさ。
翌週の吉岡での群馬大戦では、途中加入の梁が得点を決め、小林が左サイドを素晴らしいスピードで駆け上がった。グラウンドと同じ目線で見るサッカーの迫力はすごい。改めてその楽しさを感じた。
日本のサッカーは、J1を頂点としたピラミッド型でその組織を形成している。プロであるJ1とJ2、アマチュアサッカーの最高峰JFL、その下に位置する関東をはじめとする各地域リーグ、そしてその下に各都道府県ごとにリーグが存在する。プロとアマチュアに大きな隔たりがある野球に比べ、サッカーはアマチュアからプロへの明確なルートが存在する。すなわち、各リーグで優秀な成績を上げ、上位のリーグへ昇格するという方式である。
2年前のこのとき、たしかにJへの参入という大目標を掲げていたザスパだが、それはまだ遠い道のりであり、わたしを含め多くのサポーターにとっても、「将来の夢絵巻」でしかなかっただろう。
見上げれば、Jへの道 2003-飛躍
1月。
関東サッカーリーグは2部制へ移行することが決まっていた。その関東リーグで下位だった図南クラブと県リーグ1位のザスパは、関東リーグ2部参加の座をかけて入れ替え戦を行う。両チーム一歩も引かず1-1のままPK戦へ。3-1でこれを制し、敷島のサッカー・ラグビー場は歓喜に包まれた。傍らで小田島のお母さんが微笑んでその姿を見守っている。
4月。
関東サッカーリーグ2部開幕。入れ替え戦で戦った図南から鳥居塚が加わった。群馬のサッカー好きなら知る人ぞ知る前橋商時代からの名選手である。ライバルチームからの加入に踏み切った彼にその意気込みの大きさを感じた。また、かつて鹿島、清水で活躍した鉄人サントスも加入。一度引退しブラジルへ帰国していた彼だが、その豊富な経験とキャプテンシーは、見事にザスパの中盤を引っぱって見せた。
5月。
初めて草津での観戦。試合前に立ち寄った道の駅にザスパフラッグがはためく。きれいな芝の第一グラウンドに、選手達が躍動した。高須のキレのあるドリブル、宮川への地元のみなさんの声援。草津に根付いているチームを改めて実感する。
7月。
「Jリーグ入りを標榜とするクラブに対する優遇措置」申請が認められ、11月の全国地域リーグへの出場権を得る。Jへの道がにわかに開けてくる。
9月。
県会長杯決勝。前年同大会で敗れた宿敵であり、格上の関東リーグ1部に所属する群馬FCホリコシを破り、天皇杯への出場権を得る。
草津で行われた2位埼玉SCとの試合。第3グラウンドはところどころ芝のはげたピッチ。もともとMFだった奈良が、すっかりザスパのエースストライカーとなってフィールドを駆ける。籾谷の中途半端なクリアにブーイングが飛ぶ。傍らの観覧席はコンクリートの階段のみ。集まったサポーターは、思い思いのスタイルで試合を楽しんだ。
11月。
過酷な地域リーグ決勝大会を新加入フラビオの大活躍などで制し、翌シーズンから関東リーグ1部を飛び越えてJFLへの参戦が決定。しかし、翌週行われた天皇杯1回戦では市立船橋高校に不覚をとる。サッカーの怖さを知る。
Jへの道のりが明るくなるにつれ、ザスパのマスコミへの露出も徐々に増えていった。ニュース、サッカー雑誌をはじめ、スポーツグラフィック誌「Number」、TBS系のドキュメンタリー「ZONE」など。しかし、ザスパに対する目は片田舎でJをクビになった選手達が労働とサッカーの両立に励む、っといった内容。最短で翌年のJ昇格もあり得るとはいえ、それはまだ現実味を帯びるには至っていない。選手の入れ替えも多く発生した。もちろん活躍した選手がいろいろな理由で去ってゆくのは非常に寂しいが、ザスパのJ参入という至上命題のため、それは受け入れなければいけないサポーターとしてのひとつの条件とも言えた。しかし、ザスパ誕生当時から指揮官としてはもとより、精神的にもチームの支えであった奥野監督の退任、チーム離脱は多くの人々にショックを与えた。監督ライセンスのない彼がJFLで指揮を振るえず、熟考した末の決断である。一人の監督兼選手のために送別会が開かれた。ザスパにとって彼が残した足跡は今も大きい。
見上げれば、Jへの道 2004-結実
3月。
JFL開幕。新たに佐田、小久保、佐藤の群馬出身選手、Jを渡り歩いたベテラン山口などを加え、開幕から強豪、J入りのライバルでもある愛媛FCとの対決。第2戦ホーム開幕戦であるHONDA FC戦は、JFL観客動員記録を更新し、地元群馬テレビで録画中継も放映。地元のスポンサーも続々と加わり、県内での認知度も上昇カーブを描く。
5月。
JFLでの初観戦。昨年までは自由に観られた敷島サッカー・ラグビー場の周囲には白い幕が張られ、とり平やグッズの売店が立ち並ぶなど、群馬でサッカーが週末の娯楽のひとつとして加わったことを実感する。終盤に途中出場した旧リエゾン草津からの生き残り、堺の得点などでデンソーに快勝。また、ザスパJ参入の大きな障壁のひとつである、スタジアムのキャパシティ問題について、県オフィシャルの掲示板などで積極的な意見が交わされ始める。
6月。
前期終盤に来て試合終了間際に追いつかれたり、逆転負けしたりと、いやな試合が続く。停滞したチーム状態を打開するべく、地元出身大谷圭志がFC東京からレンタル移籍、初先発で初ゴールを決めるなど、チームの上昇に大きく貢献し、前期はHONDA FCに次ぐ3位で終える。
7月。
ホーム国士舘大戦、久々の観戦。今年の夏を象徴するような灼熱の敷島で、吉本が大ブレイク。連続ハットトリックなど八面六臂の活躍で、チームに勢いをつける。HONDA FCを抜き去り、2位浮上。いよいよJ入りが本格的に現実味を帯びてきた。
8月。
敷島陸上競技場の改修が決まり、Jリーグへの加盟申請へ。
9月。
ホームスタジアムは敷島陸上競技場、ホームタウンは草津町、前橋市を中心とする県全域とすることを決定。県全域とするとはいえ、ザスパの魂は草津にある。チームの屋台骨を支えたのはまぎれもなく草津の町、そして町民である。チームもサポーターもそのことに誇りを持ち、今後もザスパ草津と名乗る。義理の母は2年前、初めて観に行った試合で草津から応援に駆けつけたおばあさんが応援する姿に感銘を受けたそうだ。これがザスパの原点だ。
11月。
ホームでの大塚製薬戦は初のナイター。13,743人の観客を集め、開幕戦で自ら作ったJFL観客動員記録を更新。首位独走の大塚製薬を相手に2-0の完勝。J当確の2位確定に向けて、ラストスパートが始まる。天皇杯4回戦では初のJチームとの対戦。前日柏を破ったホリコシに続き、C大阪を相手に完璧な試合運びで勝利をもぎ取る。スポーツ新聞の一面を飾る快挙。ザスパが地方の風変わりなチームとしてではなく、実力で世間にその存在を知らしめた。
11月27日。
ホーム最終戦。この試合勝てば2位以上、J昇格が当確する試合。佐川急便東京SCとの一戦は、折からの強風にボールが煽られ、決定機でもゴールが決まらない苦しい展開でのスコアレスドロー。小島を故障で欠き、DFの要小田島も欠く布陣で、山崎の奮闘もあったがホームで昇格を決められず。
12月5日。
JFL最終戦。HONDA FCと2位をかけて直接対決。2点差負けでも2位が確定する絶対有利な条件下でありながら序盤で2失点。その後も前節に続きゴール前での空回りが続く。後半直後に3点目を決められ、そのまま試合終了。悪夢の最終戦で総得点差により3位に陥落。
12月6日。
Jリーグ臨時委員会にてJリーグ入会を承認され、来期からのJ2参戦が決定。
振り返ってみれば、ほんとうにあっという間の2年だった。プロ野球チームもなかった群馬に初めて誕生したプロサッカーチームは、今新たな時代への扉を開けた。幸いにして、このチームのサクセスロードの一部始終を見届けることができた。Jリーグをはじめとするサッカー文化は確実に日本に根を下ろし、その裾野を広げている。もしかしたら、来年からは負け続けるかもしれない。もしかしたら、そのうちJ1に昇格するかもしれない。もしかしたら、そんなことがあったな、と懐かしむだけになる日も来るかもしれない。でも、そんなときが来ても、このチームを見守ってきたこの2年間を、きっと誇りに思っているだろう。
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