童話 青いお月さま
10分で手に入る巨大な感動と勇気と癒し。老若男女を問わず、あらゆる人々にお届けします。400字詰め原稿用紙換算で10枚程度の掌編です。どうぞお楽しみ下さい。
皆さんは、月観測衛星『かぐや』を知っていますか?
近年では2003年5月9日に打ち上げられた小惑星探査衛星『はやぶさ』が、数々のエンジントラブルに見舞われながらも2010年6月13日に奇跡的な帰還を果たしたニュースがホットな話題となりました。
着陸地点のオーストラリア、シドニー上空を炎に包まれながら大気圏に投入してきた『はやぶさ』の姿は多くの人々に感動と勇気を与えました。
この『はやぶさ』帰還の約1年前、月面で命燃え尽きた衛星がありました。それが『かぐや』です。
『かぐや』は2007年9月14日、我が国が打ち上げた初の月周回観測衛星で、アメリカnasaのアポロ計画以降最大の月探査計画として当時全世界の注目を浴びました。
『かぐや』は月周回軌道上を約1年半に渡って飛行。その間ハイビジョン撮影で超細密な月面画像と動画を地球に送り続けました。
そして寿命が尽きる直前の2009年6月11日、最後のミッションとして将来の月面着陸型無人探査機の投入に向けた技術的検証のため、地球からの制御落下により計画通りの月面衝突を果たし、見事にその任務を達成しました。
JAXA宇宙航空開発研究機構の記録には……
最接近日、運用終了日ともに2009年6月11日(衝突)と記載されています。まるで戸籍の死亡欄のように……。
これは『かぐや』を幼い少女にたとえ、彼女の主観や夢をとおして、命の尊さや生きる意味などを描いた物語です。
『童話 青いお月さま』
「お~い、起きてる~?」
そう下から声を張り上げてきたのは、『うさぎさん』でした。
下と言ってもう~んと下、はるかに下。だって彼は風そよぐ草原の上をピョンピョン飛びはね、わたしはすんだ青空のなかをのんびりと飛んでいるんですもの。
「お~い、起きてんの~? 寝てたらおっこっちゃうよ~」と、またしても『うさぎさん』。
いよいよ彼はその場に立ち止まり、大きな岩の上にピョコンとのって、長い二本の耳をアンテナのようにピンと立て、不安げなまなざしでわたしのことを心配そうに見上げています。
そんな『うさぎさん』のことがなんだかとてもいじらしく、わたしは虹色のつばさをいきおいよくふって、元気なところを見せてあげました。
おっこちたのは、『うさぎさん』のほうでした。うれしそうに長い二本の耳をちぎれんばかりにふって返し、そのはずみで岩からコロン。わたしたちは空の上と下で、お腹を抱えて笑いあいました。
大地は緑一色におおわれ、朝つゆがキラキラときらめいています。やがてそれが白いもやっとした水てきのカーテンとなって、あちこちからゆらゆらと立ちのぼっています。
はるかむこうでは、海が銀色にギラギラとゆらめいていて、そこからもやはりほの白いカーテンがゆらゆらと立ちのぼっています。
むこうのゆらゆらとこっちのゆらゆらが空の上のほうでくっついて、そこにはクロワッサンのようなモコモコッとした白い雲がいくつも生まれ出ようとしています。
そんな生まれたての雲たちとたわむれながら、わたしはこれまでの長い旅をふり返っていました。
わたしは鳥。虹色のつばさをもった青い鳥。
そしてわたしは旅人。もうずっと長い間、一人で旅を続けています。
楽しいことやワクワクすること、ときにはドキドキするようなこともありました。
つらいことやかなしいこと、くじけそうになったこともありました。
どちらかというと、負けそうになったことのほうが多かったかもしれません。そんなとき、わたしは目を閉じて心のおくにじっと耳をすませます。
すると、とたんに勇気がわいてきて、力がみなぎってくるんです。心のおくにきっとだれかが住んでいて、そのだれかが力を与えてくれているのだと思います。
でも目に見えるだれかは、わたしには『うさぎさん』しかいません。
彼とはたまにしか会えないし、会えたとしてもきまって空の上と下。それでも彼はいつだってうれしそうにとびはね、笑顔で耳をふってくれます。
そのルビーのような赤くすんだひとみに思いやりをいっぱい浮かべ、はげましてくれたり、ときにはなぐさめてくれたりもします。
この旅に出て、初めて出会ったたった一人の、そしてとても大切なお友だち。
いまも『うさぎさん』は、見わたすかぎり緑色にそまった大草原の上で、真っ白い小さなからだを大きくはずませています。
さかさまになって耳でコマのようにクルクルと回ってみせたり、かと思うとムーンウォークだとか言って、前へと歩くふりをしながらすべるように後ろへと進んでみたり。
でもそれが本当は神さまへのお祈りのダンスでもあるのだということを、わたしは知っています。
わたしがずっと飛んでいられますように、との願いを込めたものであるということを。
でも、それがかなわないことであることも、わたしはよく知っています。
しかし、それでいいのです。永遠の命などあろうはずもありません。
つきることは決まりごと、だれもがわかっている宿命です。でも生まれてくることはなんびとであっても予見のできない奇跡です。
ですからつきることをなげくのではなく、生まれてきたことに感謝しようと思います。
わたしの熱い思いや夢は、必ずや大きなつばさとなってよみがえり、さらなる高みへとのぼっていくことでしょう。
未来へと続く希望のとびらは、まだ開かれたばかりなのですから……。
ふいに、ぞくっとするようなはりつめた感覚がつき上げてきて、わたしは体をかたくして身がまえました。
と、いきなり大地のはしっこのそのずっとむこうから、目もくらむような青白いかがやきがゆっくりと浮き上がってきて、わたしはびっくりして目を見開きました。
それは、大きな大きな青いお月さまでした。はるかむこうの夜の中にあって、それなのに手をのばせばさわれそうなほどすぐそこにあって。
息がつまるほど美しくて、こわくなるほど気高くて、つっつくと水がしたたりおちそうなほどみずみずしくて、わたしはそこにまるで女神さまのこぼした一てきの涙を見ているようでした。
見ているうちにこちらまで自然と涙があふれ出て、そしてすべてが夢だったということを知りました。
下を見ると、そこには緑の草原もなければ海もなく、『うさぎさん』もいません。
あるのはただでこぼことした荒れた大地だけで、どこを見わたしても目に入ってくるのは、スプーンですくい取ったような丸いくぼみばかり。
空はすい込まれるほどに真っ暗で、光りもきらめきも色もなく、朝つゆも雲も空気も、そして音さえもありません。
考えてみれば、二年近くずっとながめてきたこの風景こそが、わたしの一番のお友だちだったのかもしれません。
ふいにす~っと体から力が抜けていくのがわかりました。どうやらわたしの旅もそろそろ終わりに近づいているようです。
でも、かなしくなんかありません。だって今度こそ本当に、『うさぎさん』とおしゃべりしたりダンスをしたりできるんですもの。
わたしは顔を上げました。すぐそこで青い星がにじんでいます。この星の青い色は命のきらめきの色なのだということが、いまはっきりとわかりました。
「わたしは、『かぐや』。あの青い星で生まれた青い鳥」
そっとそうささやきました。そしてさいごの力をふりしぼって、もう一度力強く語りかけました。
「こちらは、『かぐや』。探査作業すべて完了。現在月面に落下中。これより『かぐや』は……お月さまになります」
大地には、光りと影が作り出した巨大な『うさぎさん』のシルエットが描かれていました。そのうでの中で、『かぐや』の命がはずかしそうに、ポッと赤くまたたきました。
おしまい
『かぐや』の残した功績はとてつもなく大きく、その一つが月面の詳細な地形図です。
国立天文台、国土地理院と共同で製作されたこの月の地形図は、従来のものとは比較にならないほど圧倒的に精密なものに仕上がりました。何故ならば、『かぐや』が観測して得たデータは、実に677万地点にも及ぶ膨大なものだったからです。
その結果、月の最高峰は10.75キロメートル(従来の値を約3キロ上回る)、最深部がマイナス9.06キロメートルであるといった成果がもたらされ、2009年2月13日付の米科学誌サイエンスに発表されています。
さて、『かぐや』は自らを犠牲にして地球人のために大きな貢献をしてくれました。とりわけ地表下数ヵ所で発見した長大な地下トンネルは、将来の月面基地候補として位置づけられています。
ひょっとすると、このトンネルこそが『うさぎさん』の住むおうちだったのかもしれませんね。
挿し絵 長野県佐久市A.Uehara
パステル画
了
引用
H. Araki et al.. “Lunar Global Shape and Polar Topography Derived from Kaguya-LALT Laser Altimetry”. Science 323 (5916): pp.897 - 900. doi:10.1126/science.1164146.