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文章は難しくて、面白い

リモートワークで空いた時間を使い、この3週間の全ての平日で、noteを投稿し続けてみました。

トータル約25,000字。結構満足したので、一旦この辺で区切りとして、最後に「面白い文章」について自分なりに考えてみることにします。

一般人の文章は「面白い」と感じにくい

まず、こうして自分が書いた文章をひと通り読んでみて感じたのは、「自分が読む分には面白いけど、完全な他人の目線で改めて読むと、大して面白くない」ということ。

僕の力不足もありますが、noteなどで一般の方の文章を読んでも、感想は「フムフム」程度のことが多い。自分は頑張って良いものを書いてみようと思って始めたけど、客観的に見るとそうでもない。

ここで、せっかくなので、なぜ一般の人の文章は面白くないのか?を考えてみます。

面白い文章とは

まず、「面白い」では曖昧なので、読み手が「読んで良かった」と思える文章と言い換えて考えます。固く表現すると、「人に価値を提供できた文章」ですね。

そんな文章には大きく2種類あって、内容そのものに価値がある「機能的価値」を持つ文章と、それ読むことで笑ったり感動したりできる「感情的価値」を持つ文章

これらは文章に限りません。前者は「機能」や「便利」や「役に立つ」、後者は「意味」や「面白い」や「心が動く」といった表現で語られていることもあります。

それぞれの文章で価値を出すのに必要なものは、大きく変わってきます。

機能的な文章には「希少性」と「実績」を

例えば今、世界中がウイルスの話題で持ち切りですが、仮に「多くの人命を救うための最も効果的な対策」が書かれた文章があれば、多くの人が読みたいと思うでしょう。それは、専門的な知見がないと書けません。

当たり前ですが、他の人には書けない文章には、希少性が生まれ、価値が出る。誰でも思いつく内容なら、世の中にたくさん出回るので希少性がなくなります。書き手の知識、経験、視点など様々なものが、希少性を生むための要素になります。

本来は、それこそが本質的な価値であり、面白さです。でも誰もが簡単に発信できる、情報に溢れた世界では、希少性だけでは価値は伝わりません。まずは書き手に何らかの実績がないと、その文章が伝えようとする機能の信憑性が測りにくいからです。

一般人の文章が面白く感じにくいのは、この影響が大きいように感じます。書き手の実績と、文章の価値をリンクさせてしまう「ハロー効果」というやつ。

その文章のテーマではなくても、何か1つのテーマで飛び抜けているだけで、読み手の受け取り方は変わります。有名人の書いた文章は、「この人が書くんだから、価値があるんだろう」と、読み手は勝手に解釈します。それで満足できてしまうので、結果的には価値のある文章となります。

逆に、実績のない素人が書いた文章は、無意識に「素人の思いつき」として読んでしまう。それが抽象的な内容であるほど、このバイアスで印象が変わるように感じます。

本当は「誰が書くかではなく、文章の内容にこそ価値がある」と思いたいところですが、それだけでは伝わらない。これは一見本質的じゃないんですが、この情報過多の時代では、無視できないポイントな気がします。

感情的な文章には「情熱」と「テクニック」を

一方で、例えば「子育てに七転八倒する母の思い」のような文章は、全く専門性がなくても、多くの人の共感を得られます。同じような境遇の人を励ましたり、笑わせたりする価値を持ちます。

こちらはむしろ専門性よりも「どれだけ人の感情をくすぐる文章を書けるか」のようなテクニックや、書き手が文章にかける熱い情熱が重要になります。

自身の体験を書くにしても、使うテーマ、エピソード、語る順番、行間、言い回しなど、価値が変わる要素はたくさんあるので、テクニック次第では伝わり方が全然変わります。そしてその感動は、伝えたい情熱の大きさ次第で、さらに大きく揺れ動きます。論理では説明しにくい「その人らしさ」のようなものが効いてきます。

でも、文章1つだけで人の感情を動かすのは、僕は結構ハードルが高いと思っています。今までにブログを読んで泣いたことのある人は少数派でしょう。小説なら泣けても、ブログはちょっと…という人も多いと思います。笑えるブログも、大抵は写真やイラストを使っています。

感動や笑いを誘うには感情の波を作る必要があります。でも読み手が背景を知らない限りは、文章の中に相当な量の情報を詰め込まないと感情の波を作れるような変化やギャップは生まれません。

それをするには突出した表現力か、短編小説を書くほどの情熱がないと難しいように思います。でもnoteの記事でそんなに長い文章を書いても、恐らく最後まで読んでくれる人は少ない気がします。

一般人の文章が向かう先

つまり、自分含め一般の方の文章が面白いと感じにくいのは、
・書く人の得意分野や実績がなかったり
・テクニックを気にせず淡々と書いていたり
・誰でも書けるありふれた事を書いていたり
といったあたりが大きいのかなと。

それをふまえて、一般人が面白い文章を書くにはどうしたらいいのかを自分なりにまとめると、

まず、機能的な文章を書く場合は、何か得意分野を活用して実績を発信する。「この人は凄い人かもしれない」と思えるような情報、コンテンツ、プロダクトなどを発信し続けてみるのが、入り口としては良さげな気がします。

そしてさらに、自分の文章に自信があるなら、同じような好みの人が集まるコミュニティに入る。がいいんじゃないかなと。

世の中に発信する人が多すぎるから、内容を適切に評価しにくい状態になっているわけで。同じような人たちが集まっている場であれば、お互いに文章を読み合うことになり、結果的にそこで適切な評価を行えるのではないかと。

そうして評価されたものが、より広い世界に出て価値を届ける、という流れであれば、本当の意味で価値のあるものが広がっていくはず。

もう一方の感情的な文章の場合は、テクニックを勉強して試しまくる。が一番近道なのかなと思います。

一人ひとりの生活の中で生まれた「思い」は、密度の濃い一次情報なので、読者の感情を揺さぶるという意味では元々強い力を持つはず。情熱は頑張って出すものでもないし、あとはテクニック次第。

投稿する単位も重要なテクニックだと思います。例えば毎日、多少短くても人間味あふれるワンポイントがある文章を継続的に投稿してみる。すると、いつも読んでくれている人は背景を理解してくれているので、短い文章でも感動することができるはず。

ただ、人類は長い間、表情や動きや声などで感情を揺さぶられてきたわけなので、文章にこだわりが無い人は、より情報量の多いイラスト(漫画)、動画、最近ではVTuberなどを操れるようになると、より感動を呼び起こしやすいと思っています。これは目的次第で変えればいいのかなと。

そして最終的には、それらの両方の文章をうまく取り入れることで、最も価値が高まるのでしょう。世の中突き詰めると、結局はバランスが大切ですし。

おしまい

つらつらと書きましたが、毎日こうして文章を書いていると、読み手が感じる価値は置いておいて、文章を書くのは、自分の思考の整理や訓練にこそ最も価値があると言ってもいいのでは?と感じるほどに面白みを感じました。

仮に1年続けていたら、めちゃめちゃ思考がクリアになって、自分の中の価値判断基準とか、考え方のクセとかが明確に表れてくる気がします。ありふれた結論ですが、そのあたりが面白い。

ということで文章は一旦この辺にして、次は感情的価値を生み出せるような、ほのぼのマンガを描いてみよう、、と思っていましたが、お絵かき用のiPadが娘に奪われて自由に使えなくなってしまったので、マンガではなく3Dモデリングにします。

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