「臨床」が大事な理由
僕はどちらかというと、細かくて雑多な現実よりは、多くの現実は包摂するにせよ、できる限りシンプルで美しい原理・原則やモデルを志向する傾向を持っています。細かいことを覚えたり、正確に多くの手順をこなすといったことが本当に苦手なので、これは仕方ないです。
シンプルな原理・原則は、どれだけ洗練したとしても、多くの現実を削ぎ落とします。より良い原理・原則や理論モデルは、多くの事実を踏まえてできるものであって、そういったシンプルな思考モデルであっても、事実が重要であるということは間違いない。
しかし、思考の産物は必ず、多くのものを削ぎ落とします。そのことは忘れてはいけない。
昔から、本の著者やテレビのコメンテーターで僕が真面目に依るべきと心に決めているのは、その人の意見が依って立つ経験や実践に、本当に十分で信頼できる厚みや深さがあるかどうかということです。
だから僕は、右翼思想は大嫌いです。左翼思想も同様に大嫌いです。それぞれがそれぞれの仮想敵を貶めるためだけに生み出した言説や行為に、社会にとって有用なものが含まれているとは全く思えません。
事実に対して誠実に向き合えば、その人はきっと、左翼からも恨まれ、右翼からも命を狙われるような意見を持つようになることは容易に想像出来るし、僕自身はそうに違いないと思っています。
そういった知らずに僕が取っていた信念からずっと注目し、学び続けられているのが、臨床心理学でいう「臨床」であり、また、現場主義です。
とりわけ、病んだ来談者に向かい続ける臨床心理学界隈の方の発言には、何か分からないけどすごい惹かれるもの、見過ごせないものがあるのです。それがずっと、不思議だなあと思っていました。
河合隼雄というとりわけ偉大な方がおられます。(講義なのに面白いですよ)
河合隼雄さんに直接教えを受けたという皆藤章先生の著作・講演にも、僕は多大な影響を受けています。
先日、森永ヒ素ミルク事件の動画を見てハッと気付かされたことがあります。
被害者の弁護団団長を勤めていた中坊公平さんが、被害者と生活を共にして聞いたという言葉です。
被害者の口から出てくるのは、判で押したようにして決まっていたそうです。それは、加害者側である企業や、対応が後手に回る政府に対する恨み辛みの言葉では全くなく、「自責」の言葉だというのです
また、障害がある子どもが何の落ち度もないのに周りから苛められたり、不合理な扱いを受ける、そういった日常の一コマ一コマから募っていく「世間」への恨みというようなものらしいです。
僕なりに思うに、結局、被害者となることで社会全体から疎外され、無いことにされてしまうという全般的な力学というか、運命みたいなものが、当事者にとってもの凄いダメージになる、ということのようです。
これは、長らく病んでいた僕自身の実感にもすごく当てはまるもので、動画で改めて中坊公平さんの証言を聞いて、かなり衝撃を受けました。
「声なき者とされること」
「いない者とされること」
こういったことに伴う絶望的な無力感、自己無価値感に取り組むことが飛びきり重要だということを忘れないようにする、という観点で、現場主義や臨床家の業績・・というか生き方を振り返ってみるのは、我が身一事の今後の人生の幸福を考える上でさえもすごく役に立つと思えました。
お盆っぽい記事が続いていますね。
何かに言わされているのでしょうか(笑)