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花まるちょうちょうとうえ木ばち

千切りキャベツのジャングルを冒険して、

トーストに塗られたバターの大海原と、

真っ赤の目玉焼きにうっとり拝んでます。

風呂からの喫茶店という最高の流れがルーティン化する。今日は、朝ごはんをただ食べるというワンシーンをさ、大舞台の脚本に置き換えてる。

モーニングセットを頼む事は優雅だ。

ただ、その自明すら簡単に凌駕した月曜日の朝。
そんな1日を切り取りして、表すのであれば、

「花まるちょうちょうとうえ木ばち」


タイトルを回収したということで、

ここで、一旦。
小学校の2、3年生の放課後にトリップするよ。

同じ漢字を何度も書き綴ったり、九九をお経のように唱えたりした時あったと思う。

あの時代の宿題もう一回やりたいなあ・・・

大学の課題が嫌いってわけじゃないよ。

でも、受験勉強は嫌いだし、普通に挫折した。

なんで宿題が好きだったかという話をするとね。
毎回、大好きな先生がジャポニカ学習帳のページを捲る度に現れたのがそう、

「花まるちょうちょうとうえ木ばち」だった。

ただ花丸(=百点満点)じゃない。蝶々と植木鉢を書いて貰えることに意味があったんだ。たまに蝶々が飛んでない時もあったんよね。悔しかったからさ、次からはいつもより綺麗に書いた。

若かりし僕

話のニュアンスをここで変えるよ。

満点を目指す=完璧主義者
合格ラインで=適当な妥協

百点満点を取る事が正義であると完璧主義者が定義したとする。取り続ける人の気持ちはちょっとわからないから、その人の葛藤は置いといて。

最低限のタスクをこなせれば良いと言う合理的な考えが板につく人もいたとする。満点の人に羨望の眼差しを向けて、「まあ自分も大丈夫だし、なんとかなれる」って楽観的な言葉を用いる。

百点満点という身勝手な枠組みに邪魔されず、
合格ラインの線引きを気にするのでもなくて、

?が!になった時に得られる純粋な感動にさ、
えがおになれるから、振り回されたい。
これが僕が考える「花丸蝶々と植木鉢」である。
楽しさやワクワクは段々と加算されていって、
最初木を見ていたのが、林になって、森になる。


長渕剛が歌う。
「遥か長い道のりを歩き始めた」なら、

桜井和寿が歌う。
「誰も知ることのない明日へゆく」なら、

僕は答える。
「花まるちょうちょうとうえ木ばち」とね。

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