侘びて寂びる
詫びとは完璧では無いものを補う創造性の美しさで、寂とは秩序だった姿とエントロピーが増大するなかで秩序が乱れていく時間変化の姿との共存と調和と新成、その動的平衡の美しさのように想う。
これはぼくのなかのもので、他の人の中にはないかもしれない。
幼い頃からなぜだろうと思った時には、頭だけどこかにいっている。からだは自分の重みを感じて地に足ついているのに、頭には重みがなかった。
じーっと見つめては、眺めては、飽きないのだろうかとよく言われたものだ。飽きるものか。同じとこを見てはいない。いや、同じとこを見ている。見ているのにわからないからみているんだ。そういうことがわからないのだろうか、そう思いながらも、そう思うことをやめた記憶は懐かしい。
考えることを考えた時、自分の輪郭を見たような気がする。
蝉も鳴いていた。
蝉が鳴くと夏を感じる。梅雨の終わりを告げるように体を振るわせるからだ。生きていく中で覚えてきたらしい。
きょうみる夕焼けも美しい。
なぜだろうか。
夕焼けが美しいと教わることもないのに。