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#17 ヨッシャマンVS才能

私は武術が好きである。
武術をやめたら一生遊んで暮らせるお金をあげるよ、と言われたところでやめる気はない。
やめた振りをしてお金だけもらう。
というくらい好きなのだけれど、まったくもってクソが付くほど下手である。
同時期に入門した同輩の倍の時間稽古して、なんとか横並びといった具合だ。
達人など夢のまた夢の妄想。
とにかく覚えが悪い。何回も教えてもらわなくてはならない。やっと感覚をつかんだかと思えば、春の夜の夢のごとく手をすり抜けていく。
こんなに才能がないということは……



指導者に向いているに違いない。


うん。私は「教える才能」に溢れていると思うのだ。
手前味噌ではあるが、長女はこの手の習得が恐ろしく早い。中学で柔道をやっていたというのもあるが、映像を一回見せただけで、私がいまだに出来ない技もポンっとやってみせたりする。末恐ろしい娘である。
しかしながら、教えるという段になるとまるでダメだ。
「どーやったの、今の?」と聞いても、
「なんとなく、こんな感じ」と参考にならない。
しまいには、
「逆に、なんで出来ないの」と白い目で見てくる。
あー、やだやだ。天才は鼻につく。(バカ親)

その点私は、「できない」のエキスパートである。ある意味では天才をこえる才能であるといっていい。なぜなら、出来る人には、出来ないは出来ないのだから。

「僕は教える才能がある」と負け惜しみみたいに言ったら、
「ポジティブすぎるだろ」と娘に笑われた。
しかし、これはポジとかネガとかいう問題ではないと私は思う。
ポジティブというのは、前向きに転換するようなイメージがあるのだけれど、この場合は側面を見るような感覚である。
技が出来ないことをポジティブに捉えるならば、出来ている途中という捉え方をするだろう。出来ないを否定している。
そうではない。
やがて可愛い愛弟子に(できれば美女弟子に)「ししょ~」と言われたい私は「出来ない」じゃないと困るのだ。私に教えを乞うというならば、出来ないやつが来るに決まっているからである。

そんなことがあり、私は「才能」について考えてみた。
現代おっさん子としては、まずグールグルに聞いてみる。
簡単にまとめると、「物事を巧くなすための力」とある。先天的な資質と後天的な訓練とがあるらしい。
そもそも私にはその前提がピンとこない。
「うまくなす」というのはどの程度うまくなせば才能なのか?
きゃー、すごーい!とキャバクラでおだてられる程度なのか、はたまた観衆が立ち上がって拍手を送るレベルなのか。
一般的にと言うならば、どこが一般なのか?
チンパンジーの群れの中で暮らしていたら、服を着るだけでも才能だ。環境で全然違う。
誰と比べて「うまく」なのか。過去の自分か?

お分かりだろう。
才能などというものは実にあやふやなものであると。
ならば、私はこう結論付けたい。


自己申告制でいーよね。


言ったもの勝ち理論である。
「私には武術を教える才能がある」
ほら。否定することはまず無理だ。根幹があやふやなものを、あるとかないとか他人が立証しようがない。

ゆえに、無限に増やせる。
才能がない、と思っていることはないだろうか?
ちょっと横から見てみてほしい。
料理が好きだけど、いつも焦がしてしまう?
「サザエさんの才能」があるではないか!

そもそも、「好きになる」という事自体がすでに才能とも言える気がする。
私は「武術の技をいちはやく習得する」という才能はないが、「武術が好きになる」という才能を持っていたので楽しく稽古できるわけだ。

その気になればいくらでも才能を発掘できるわけだが、今ある才能をさらに伸ばすには孔子の言葉をヒントにしたいと思う。

「これを知る者は、これを好む者に如かず。
 これを好む者は、これを楽しむ者に如かず」

何かが得意だという人でも、それを好きだという人にはかなわない。
それを好きだという人でも、それを楽しんでいるひとにはかなわない。
と、そんな意味だ。

しかし、せっかくなので私もここに一言加えたい。

これを楽しむ者は
これを面白がる者に如かず


今日もこれから稽古である。
よしよし、今日もうまく出来なかったぞとほくそ笑むことだろう。どうやったら出来るのか悩むのが面白いのだ。


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