#6 ヨッシャマンは本質に触れたい
もう10年以上前から、勝手に師匠とあがめている整体師の先生がいる。
その先生のメルマガを、師の念仏を一言も聞き漏らすまいとする小坊主みたいに愛読している。ぽくぽく。
つい先日届いたものに、こんな一文があった。
「本質、源泉に触れたいと思う。人間にはそんな欲求が本能的に存在する」
なんじゃあそりゃああああぁぁ!
と、私の中で眠りについていたはずの松田優作が目を覚ますほどの衝撃だった。
私は両膝から崩れ落ち、天を仰いだ。プラトーン化だ。たまにある。
本質、源泉に触れたいと思う欲求が本能的に存在する。
私のこれまでの人生をここまで端的に、的確に表現する言葉があっただろうか。
そう、それ!と私はスマホの両肩をつかんでぐらぐらと揺すった。
生粋の遊び人みたいにあちこちに手を出してきた私ではあったが、何かを習得したいとか、糧にしたいとかそういうことではなく、ただただ本質に触れたかったのだ。
目からウロコ、どころか全身の鱗が剥がれ落ちたような気分だった。「千と千尋の神隠し」でハクが自分の名前を思い出した時みたいなイメージで。
自慢ではないが、
「ヨッシャマンって、とびうおに似てるよね」って言われたことがあるのだ。ふふ。
なかなか魚類に例えられる経験もないので、正直、飲み込むのに苦労はしたけれど。
まぁそれはいいとして、
上っ面やハリボテや虚像ではなく、本物、深い核の部分。ただ、そこに触れたい。
私はその思いだけで、まんまとこの年まで生きてきてしまったような気さえする。
その本能的な欲求がやや強めだったのかもしれない。
おそらくnote界隈には同じような方が多いのではないかなと思ったりもする。
「源泉」もパワーワードだ。
ものごとの成り立ちとか、言葉の語源とか、よだれが出るほど好きなのである。
これまで不思議に思っていたことも色々納得できた。
例えば……
今さらだが、私は山が好きだ。
山歩きも好き。腿が爆発しかける事もあるけど、それでも好きだ。
しかし、山頂を目指す登山にはそれほど心踊らない。征服感は特に求めていないのだろう。
それよりも、川の源流探しが大好きである。
母なる大河をさかのぼり、いくつもの分岐点、葛藤の痕。彼女の人生を逆再生していく。数奇な運命みたいに。
少女から赤ん坊へ。そして最初の1滴。
それを探すのが、想像するだけで漏らしてしまいそうなくらい楽しいのだ。
気になる子がいると、こっそりとあとをつけてしまう。
そう、
川のストーカーである。
とにかく川をみると源流を探したくなる。
これも本能的な欲求だったのか。
おそらくnote界隈には同じような方が……まぁ、こっちはあまりいないか。
源流探しは道なき道を行くことになるので、ほんのちょっぴり死にかける事もあるけれど、なにしろ迷うということがないので安心だ。流れにそって下ればほぼ確実に帰れる。魔物にでも遭遇しないかぎり。
目的地がはっきり分からないというのもまた良い。冒険とは斯くあるべき、と思う。
好奇心の向く先は、いつだって「本質・源泉」だった。そこに向かうのが楽しく、そして触れるのが面白い。
それは、もはや自分の意思を超えたものなので、私自身にもどうすることも出来ない。セイレーンの歌声に引き寄せられるあわれな船乗りみたいに。
私はこれからも変わらずにその蜜に誘われ続けるのだろう。本能のままに。
そしてその流れは、いつか私自身という小さくて巨大な世界の本質・源泉へとたどり着かせてくれるかもしれない。
それが、どんなにしょうもないものであったとしても甘露に違いない。
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