彼女に振られたので山暮らししようかと思う。#7
さらば前髪
私が「山暮らしをしたい」と言うと、ほぼ10割の人が「山をなめてんじゃねーよ」という顔で私を見る。そして、山がいかに危険か、山暮らしの大変さなどを無知な子供に言い聞かせるように吹き込んでくる。それほど私は能天気に見えるのだろうか?
いや、そもそもお前ら山暮らししたことないじゃん。と私は言いたい。
他人からの評価はともかく、私自身は自分を向こう見ずな人間とは思っていない。感覚を優先しがちな面は確かにあるが、基本的に小心者である。
今回の山暮らししたいプランにおいても、3年ほどの準備期間は設けるつもりでいたのだ。
しかし、実際に山でテント生活をしていた人と知り合いになり私の希望を話したところ、
「はよ、行け」
だった。3年とか待つ必要ないから、と言われた。
経験者の言葉はシンプルだが、重い。
よし。
物件が見つかり次第決行しよう。
方向性は決まった。
「はよ、やれ」である。
もちろん、それまでに出来る準備はしておきたい。
その1つが、前髪依存からの脱出である。
前髪信仰と言ってもいいかもしれない。
私の通った中学は、戦後の教育から一歩でもはみ出すまいとかたくなに決めているような学校で、男子は坊主、女子はおかっぱ頭と校則で決められていた。
民主主義とはなんだろう?少なくとも田舎の中学生には縁のない話だ。
それなので、私たち男子生徒はチェッカーズやらシブがき隊やらの前髪をよだれを垂らしながら眺めていたものである。アイドル達の前髪主張はだいぶ強めの時代だったように思う。
こうして私の中で前髪信仰が生まれ、敬虔なる聖徒は50を目前にしてもなお道から外れることはなかった。
単純に自分の額が好きではない、というのもある。デフォルメするとベジータになってしまうから。
私にとっての前髪は、女性にしてみたら化粧に近いのかもしれない。それがないと、ひどく頼りなく無防備に感じてしまう。
だが、私はそれを捨てることにした。
彼女とも別れたのだ。長い友と別れたっていいではないか。
山暮らしに前髪は不要である。
そういった経緯で私は床屋に行った。
ただの散髪ではない。決別の儀式である。前髪よ、さらば。
バッサリいった。
私の人生史上、坊主に次ぐ短さである。360度どこからみても短髪。これを短髪と言わず、なにをもって短髪と言うかというほどの短髪。
私は自由になった。
前髪の奴隷ではなくなったのだ。
とにかく、楽。
あらゆる面で楽である。
これは1度味わうと戻れはしないだろうと思われる。単発では終わらない。
ベジータコンプレックスも、開き直ってしまえばそれほど気にならない。
なんだったらちょっとカッコいい。あれ?私って「トップガン」に出てたっけ?という気にもなってくる。
これは相当にひゅーひゅー言われるはずだと、リアルに軽く浮きながら仕事をしていたのだけれど、
ほぼ気付かれない。
おいおいおいおい。
30年以上あった前髪がないんだぞ?
おでこが全開なんだぞ?
どーなってるんだ、これは。
私は知った。
人は他人の髪型なんぞどーでもいいのだ、と。