F10 ヨッシャマンと秘密のノート
「本気で病院行ったほうがいいんじゃない?」と妻に心配されたくらいに記憶力がない私。
若年性のアルツハイマーを疑われたのだ。
先天性だから問題ない、と私は答えたが、もちろん大いに問題はある。物事を引きずらないというのは有難いことではあるけれど、厄介事の方が多い。
なので、成り行き上「記録魔」になる他ない。
武術の稽古の後は必ず「教わったこと」「注意されたこと」を記憶がすり抜けて行く前にノートにまとめる。
必要な日用品などは、すぐにメモにして冷蔵庫に貼り付ける。それでも忘れる。
恋人ができた時も、専用の手帳にデートの内容は全部書いていた。忘れたくなかったから。お陰で生理周期は本人よりも詳しかった。
一行日記もつけている。日々のくだらない思い付きが砂に埋もれてしまう前に。
そんな私が記録魔として覚醒したのは、長女が産まれた日だ。
私は「この感動を一生憶えていよう」と思ったが、私は私自身の記憶力をまったく信用していないので育児日誌をつけることにしたのだ。
1ヶ月くらいすると、私の日誌を見た妻が
「わたしもやりたい!」と言って可愛らしいノートを買ってきたが、文字通りの三日坊主だった。
それもそのはず。1日に1ページぎっしり書き込んでいる。そんなペースで素人が走りきれるわけがない。
面倒臭がり屋の暖簾を幼少期からかけている老舗の私は、ただ「記憶の保存」という目的にそって、出来るだけシンプルに短く記録するようにしていた。
日付とキーワードだけで十分だった。本当に言葉というものは不思議だ。ノートに書かれているその一言で、その時の状況はもちろん、感情までもが克明に思い起こされる。場合によっては、写真以上に鮮明で膨大な情報を引き出すことだって出来る。
まさに宝のノートだ。
これがあれば、娘がいつ初めて立ったのかとか、歩いたとか、初笑い、初喋り、何でも答えられる。
世のパパたちが、うまく喋れなくなるくらいに鼻の下を伸ばすという「パパと結婚するの」発言事件の正確な日付だって分かる。妻は、「やめておいたほうがいいよ」と割に本気で娘に言っていたけれど。
もちろん、この発言をもとに娘をゆすろうなどとは思っていないが、娘の恥ずかしい過去はだいたい収録されている。
一生分の酒のつまみになる。
出来事だけではなくて、娘の面白かった発言なども収められていて、ネタの宝庫である。
例えば、こんなのがあった。
○月○日 天使のおしっこ
日誌というよりは、もはや私だけが分かる暗号帳である。
この日の顛末はこうだ。
保育園からの帰り道、次女が私に対して質問をしてきた。
「ねぇ、パパ。雨ってなに?」
雨ってなに?
シンプルな直球が一番ひるむ。
雨とは何か。
私は、雨が降るためのプロセスを、出来るだけ娘に分かりやすいように説明をした。まず海の水がお空に登って雲になって……
一通り私の説明を聞いた後で、次女はつまらなそうにこう言ったのだ。
「なーんだ、天使のおしっこじゃないのか」
どあたまを引っぱたかれた気分だった。いや、実際にキャシーに叩かれていたかもしれない。
なんていうことだろう。
私は何てつまらない返答をしてしまったのだろう。いつからそんな汚れた大人になった?
雨とは何か。
天使のおしっこ。こちらの方がよほど真理だ。
私は、大至急言った。
「ま、簡単に言うと天使のおしっこってことなんだけどね」
それを聞くと、次女はぱっと破顔した。
「やっぱりそうなんだ!」
「うん、そう」
そして私は自分の失態を取り繕うかのごとく、「ちなみに、雨の後で土がぬかるんでドロドロになるでしょ?あれは天使のうんち」と調子にのって続けた。
「へぇ……」
それはどうでもいいみたいだった。
一言書いておくだけで、いつでも取り出せる。
言葉はまるでタイムカプセルだ。
「子育てに正解はない」なんて言われるように、やはり葛藤だらけで、それもノートの随所にシミみたいに残っている。
例えば、子供って残酷な事をしたりする。
たいがい、虫やカエルやらがそのターゲットになってしまう。
かくいう私も、あの世に行ったらザリガニたちに腕の1本は切り落とされるだろうと覚悟はしている。
彼らには悪いとは思うけれど、私はそれも必要なことだと思っているのだ。
人は誰しも「残虐性」を持っている。
この残虐性は、早いうちに解消しておくほうがよいと私は考えている。抑圧された残虐性は大きくなり、暴走することもあるからだ。それが人に向けばイジメになったり、最悪新聞に載ることにもなる。
子供たちだって、虫たちへの残酷な行為は道徳的にイケナイコトだというのは分かっている。しかし、衝動的にやってしまう。それはある意味で自然なことなのかもしれない。
だから、それを正しても意味はない気がするのだ。
隠れてやるようになるだけなんじゃないかと思う。
もちろん、親としては容認も推奨もできないので、奥義の「見ないふり」を私は使うのである。
「正しさ」を説くだけで済むなら楽なんだけどな、と思う。
しかし、それだと「親の前でだけ良い子」になってしまう。私の経験上では、ということだけど。
親が聖人である必要はない。
むしろ、清濁あわせ飲むくらいではないとな、と思ったりする。
君が笑ってくれるなら、僕は悪にでもなる~♪と中島みゆきが歌ったように
私も、娘が助かるならばその辺の男は何人か犠牲になっても構わないと思っている。
そもそも、子供は親の目を盗むものである。
盗ませてやるぐらいの懐はほしいものだ。
さて、壮大なフリが終わった所で、次回はその怪盗たちが引き起こした最大の事件の謎に迫ろうと思う。