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2017年05月16日 10:41 自然をうたうNightwishの曲など5つ
自然をうたうNightwishの曲
自然が己を姿を鏡に映して見たらたちどころに自殺するだろう。自然は無邪気である。まさしく盲目である。自然は飽きることなく己を現象の階層において敷き詰め続ける。
自然がこのようなものである限り、自然のうちでいくら自然を問うても、自然がなぜこのようであるのかは判明し得ない。つまり、自然がなぜ飽きることなく自然を敷き続けるのか、自然は自然として調和のうちに安らって居られるのかという、かかる不気味な事実、最も壮大なホラーは、決して解明されることがない。自然を解くには、自然の外よりする方法があるのみである。すなわち、因果の隷属体である自然、その外より自然を取り扱うことが欠かせないのである。
因果より脱し自由であるものが存在し、因果が選択的であり相対的であるということ、この認識だけが、自然という絶対的に見える拷問の檻から人を解き放つものである。現象にとって、因果は絶対である。
しかし実質的な世界観からは、すなわち本質からは因果は全く相対的である。主体は根本的に自然から自由である。
だがこの認識には、文字通り、認識をもって至らねばならない。これゆえ自然より自由であり得るものは、地球上では人間のみである。なかでも個体や種族や生の情念から一時的にせよ遮断され、冷静に客観的に世界を観察することができる者のみが、自然の正体を、風呂場の床に引っくり返った一個の洗面器のように悉(つぶさ)に観るに至るのである。
(再三紹介するが、改めて、この曲である。何度幾度と繰り返したとて、自然が己を無限に生み出し続ける繰り返しに比べれば如何に慎ましやかであろう。この曲は、音楽の方法によって自然を解明した稀有の曲と述べて、全く過言ではない。まこと偉大な曲の一つである。)
幻想
幻想なんだよなあ。人間が認識する世界そのものが。
文字通りの幻想(=空想)はもちろん、現象も幻想で、それが何を示唆するかというと、幻想に確実性すなわち意味を見出すことは不毛だという教えなんだよなあ。
しかし人間は幻想である世界に確実なものがあるとか、揺るぎない価値があると信じようとする。人間はこのように信じたいのである。これはもちろん誤謬なのです。人間の器質の機能的に、現象を「実在のもの」「揺るぎないもの」と認識する誤謬を起こすようにできている。この誤謬のことを、宗教においては「業」の一つなどに数えてきた。
説話風に語ればこうなる。
誤謬によって、人間は、「これが揺るぎない」「いやこれこそが」と言い合い、争い、その時代ごと世界に呑まれて消え、しかもいつの時代にも同じことをやる。この世界に揺るぎないものがあるなら、とうに発見され、万古不易の唯一のモノとして今に至るまで君臨しているでしょう。価値を巡る争いは、その風景を想像できないほどに、絶えて久しいでしょう。しかしそんなことが世界にありますか? (ありませんよね? それなのに、)なぜ世界が幻想でできていると解らないのですか?
(きょうは雑談っぽく述べてみた☆彡)
Shitlord Of Money ~ Little Match Girl響ソロ
「お金」は愛の流れだ。他方重苦しいものである「金(カネ)」は、我執の地獄における戦争資金である。
「惜しい」と思わず、吸って吐いて気持ちがよい呼吸のように自然に出す使い方ができるとき、金はお金である。お金の実態は空気と同じである。空気はわれわれには出して入ることが当然であるように、お金も自然と出て行って入るものである。しかしお金が個体と結び付く時、カネとなり、カネは重くて動かせない恐ろしいものか、命を削らねば僅かも動かせない畏怖の対象、地獄の魔王としてふるまう。
総じていえば、金は人間が使いこなす(「お金」として遣う)には尚早すぎる。資本主義システムのSEである、金貸し人間たちは、間違いなくそれを知っていて確信的に金を人間界に敷いている。まさしく悪であり、人間の中の人間である。
という前置きからの『Little Match Girl』響ソロ!!
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13690541
取るに足りない曲であっても、響が歌うと真理に引き上がってしまうのは嬉しい――これをわたしは響ドーピングと言う――が、アイマスは今に至る課金ゲーの元祖(元凶)なので、ダウンロードでのみ手に入る響ソロが多数ある。
メタル雑誌のインタビューに洗脳されたわたしは、音楽は絶対にアルバム派なので、電網曲は響といえども縁がなければ揃える欲望はないが、あまりに突き抜けた曲があれば考えることもある。
Little Match Girlは楽曲は凄く褒めても中の上。雪歩の持ち歌にふさわしい気取った空疎な曲想と、秀才ぶりを外さない大人しさとつまらなさが売りだね。サビの終わりに泣くギターがよいよね。
この動画の中で、響は「持ち歌キラー」と称されている。誰の持ち歌だろうと、持ち主以上に魅力的に歌ってしまわないものはないから、持ち主は阻喪しちゃうよね。Little Match Girlも「響ドーピング」によって真理曲になっちゃってるのが悩ましい。
これをまともな音質でフルで聴けるならば、お金が手元にあれば流しちゃうだろう。こうした時は、すでに未来において溢れんばかりの幸福を与えられているのを主体は予感によって知っているから、心ばかりの埋め合わせとしてお金を流すのである。(もちろんお金でなく別のものを充てるべきと察すれば、その行為をすればよい。こうした取引は、今後お金が社会から引き潮のように退いていくつれて、増えていくであろう。)
わたしが現象の階層をもたない完全な幻想の存在であったなら、音楽や書籍を電網上で観ることも吝かではなかっただろう。しかし今のところ世界におけるわれわれの出遭いの物語には、現象が(も)付帯するのだ。
カントとショーペンハウエル
二人は同じ世界を観たが、カントは図鑑として観た一方、ショーペンハウエルは詩として観た。つまり、カントが「この植物がある」とのみ言い得たところを、ショーペンハウエルは「この植物は【美しい】」と言うところまで可能にしたのだった。カントの観方が【受動的世界観】ならば、ショーペンハウエルの観方は【主体的世界観】と言える。
もっとも彼は著書のなかでは「美しい」よりも「これはひどい」「ばかの極みだ」のような言葉を好んで使う個性の持ち主であった。まわりの誰も彼の思考の水準に迫ってもいなかったからである。
響
アイドルに興味がないわたしでさえ、響がアイドルとして素晴らしいと思うのは、響はアイドルを俯瞰したうえに創られたアイドルであるからだ。
人間が大安心する「現象」ではなく、「幻想」たる存在として、存在世界に打って出、一人前に歩くこと。この神聖さを纏う者こそが、真にアイドルを名乗るに足る。したがって現にアイドルと言われる多くの者達は実際は人間でしかない。響をはじめとした少数の他に、アイドルを冠する者がどれほど居るかというと、絶対的少数であろう。
わたしがアイドルを創るなら響には必ず響の声と人格を与える。まさにそれが響においては為されていることが素晴らしいのである。
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