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2017年07月15日 12:38 北斗の拳とRhapsody(Of Fire)など2つ
本屋・『鉄拳2』
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きょうはハーブ園を三角ホーで全面除草したあと北部の葛屋書店(かずらやしょてん(蔦屋書店))に自転車で向かった。いまある鋼鉄(車)はCDが聴けないので乗る気にならなかったためだ。アニマスの『蒼い鳥』のTVアレンジ一曲のために春香がジャケ絵に載っているCDを買った。春香はどうでもいいんだ。『蒼い鳥』を聴きたいだけなんだ。なんで春香なんだ。春香とはイベント毎に勇者と悪役が出会うような腐れ縁であった。もう一つの目的の『されど僕らの幕は上がる。』2巻は手に入れた。これは久々の夏小説の良い(酔い)ものだ。行きに東部のタンタン麺屋で麻婆豆腐とカラ揚げ(残り持ち帰り)、帰りにT駅そばのサンクス(やがてファミマになるもよう)でハーゲンダッツを入れた。
帰りに小説の構想を一本思い付いた。これはいつものこと。実際に小説になるかはわからないのもいつものこと。小説を描くのは人間を残している必要があるからね。人間=個体的感性がない局面だと小説を描く欲求が嘘のように消えてしまう。これは小説を夢中で書いていた13年初頭までは想像もしなかったことだ。
ところで、中学の頃、同級生がコンピューター室で自分でプログラムを組み、『鉄拳2』(当時『鉄拳2』は発売されていなかった)というゲームを造ったことがあった。このゲームは、当時の中学生が組んだのはさすがだが、背景がブラックスクリーンの平面上に2人の棒人間が対峙し、1Pはパンチはできるがキックはできず、2Pはパンチとキックができるが後退すると死ぬ(ゲームが終了する)という不自由で未熟なものだった。
わたしが以前、自分がいわゆる人間だと疑いなく思って過ごしていた時、自分にとって世界やそこでの生活だと思っていたものは『鉄拳2』であり、美的認識ないしは本質的認識を知ってからの世界は、土曜夜の(ちょうどきょうが土曜であるためで、深い意味はない)ターミナル駅前のごとしであると思う。つまり、疑いなく暮らしている時代からは、決して想像すらできない世界がある。(このことは何度も繰り返して述べている。)
だが、本質的に縁があった者は祝福されるべきだし、本質に縁がない者も祝福されるべきである。ふたつは同じもののうちの異なる部分でしかないからである。
帰りにH堂の近くでワルイ飲み物を買った。うまかった。(2025年追記:何の飲み物だったか思い出せない。)
アイマスとナムコゲーのコラボCDの曲を聴いて思ったが、ファミコンの音(周波数、帯域)はたしかに本質的な呪力を持っている。子供がやっているゲームがあの音だったのではなく、あの音を子供は(言葉にはできないが)解って愛好していたのである。
今から『されど2』を読む。
自転車は1730-2300。運動は昼過ぎから。この体力なら、近く予定がある、三千メートルの山に登っても、足が攣らなければ大丈夫だな。きょうの帰りに家の近くで足攣っておいたからもう攣らない。
きょうは千早の音楽を割と多く聴いて幕を開けた。終わりはこの文を書きながら取り込んだ『蒼い鳥』をPCで聴いた。
そういえば、『Just Be Myself!!』では、千早は悲劇を脱し、響に近付くことができたね。二人で良い曲をたくさん歌ってください。
北斗の拳とRhapsody(Of Fire)
カラダが生きる理由を不問にして生き始めるから夏の暑さほんと嫌い。この季節のニンゲンのカラダの観察は、動物番組のVTRを見ている気分になるね。
この動物番組のBGMには馬鹿っぽい音楽がふさわしく、じつに『北斗の拳』が嵌る。
異様に高い音楽性から馬鹿っぽい音で草。それにしてもタイトルの光あふれるドス黒さ。重篤な中二病患者も裸足で逃げる。(画像)
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この青木望さんって、(ほかのたくさんの凄い人と同じに)ほんと凄い人やわー。
『北斗の拳』の音楽は、ワイの未来のRhapsody体験の明確な布石であった気がする。ひいては、SentencedやLacrimosaもこの音楽体験の帰結にある。夏の何回かに一回は必ず北斗の劇伴聴いてる気がする。
考えてみれば、当時はもちろん気づかないが、『北斗の拳』は動物番組そのものだったしね。良質な動物番組でした。
夢中で動物をやるという経験は大切であり、絶対に必要である。
主体がこころから光や熱量を感じる経験は、成熟してからの人生において、真理への糸口になり得るからである。つまり光や熱量を、【誤ったものごとでなく自然なものごとに対して使うことによって】、主体は真理と緊密な関係を持つことができるのである。
北斗の拳やRhapsodyが教えるものは、主体の認識が低次であり、観察力が育っていない階層においては、主体は主体の外に理想が在ると思い込んだり、主体の外の理想を追い求めるという行動上の誤りを必ず起こすという教訓である。
なぜなら観察力がない段階では、主体は主体じしんを観察することが決してないために、主体の世界と外部の世界とが連関し連動しているという観察を成すべき由もないからである。
観察力が育っていない者の犯しがちな事例が、自らをヒーローや勇者と同一視する幼児である。
または、外部にフロンティアや征服すべき冒険の地があると信じてやまない経済活動家たちの一部も、そうかもしれない。
自らの経済的労働が、何か漠然とした「正義」であるとか、「並居る敵を打ち負かし一番になるべき冒険」であると思うのであれば、幼児と同等である。
むしろ問題の本質は逆で、幼児並みの頭でなければ、「ヒャッハー金だ金だー!」という活動に専念するという北斗の拳のモヒカンたちのような真似はできないということだ。
こうした人々への対処は二つである。世紀末救世主のように一人立ちはだかるか、サザンクロスのごとき都市を退避してモヒカンの暴政の時代が変わるのを待つかである。
モヒカンにはモヒカンの役割があるのだが、役割が終われば時代は必然的に移るものである。
知っておいて役に立つことは、世界は北斗の拳やRhapsodyやドラゴンクエストのような、「明解な冒険フィールド」ではないということである。
たしかに、世界がこうした冒険フィールドのような、「一瞬」や「一局面」であることはある。だが世界全体は、決してそれほど単純明解ではなく、むしろ大概の者にとっては混沌としていて、しかもその混沌が極めて広く続いている。
しかし、幼児の頃の、理想を求める心の動きは、非難されるべきではない。この心は、根本では主体が真理をめざす動きであり、未熟な認識のもとに動けば悲喜劇を引き起こすにすぎず、いっぱしの観察力をもってすれば、混沌とした世界において明確な真理に到達し得るからである。
幼児は認識力が低次ゆえに、北斗の拳やRhapsodyやドラゴンクエストに夢中になるが、それは幼児という未熟な器なりの真理の追究である。いっぽうで幼児は理想をすぐ忘れ、執着することがない、という美点も備えている。「ほしいほしい~!」とガチ泣きしても、ケロッと次のものに目移りする。幼児は、自身の中でバランスがとれている。
幼年における追求では、誤ったものを多分に追求するが、正しいものも幾つかは確かに見付けているものである。数少ないそれを見極め、自身に蓄積するのがとりわけ大切である。それは将来、真理への糸口になるものだからである。
たとえばRhapsodyの音楽体験では、実際の世界を「エメラルドソード・サーガ」に取り違える事は誤りであるが、主体が光や熱量に方向へ一心に向かうことは正しいことであると教える。
誤ったものごとに一心になることが誤りを引き起こすのであって、自然なものごとに一心になることこそ、生まれてこのかた主体が願っている事である。
では正しい(自然な)ものごとの見極めはどうするかというと、心が盛り上がっている時に【あえて心を澄ませて自らの内面を覗く】ことに尽きる。主体が光や熱量によって盛り上がっている時に、あえて鎮(しず)かに自身を覗くことによって、自身が世界をどう捉えているかが解るし、どう捉えたいのかが解る。
ひいては、世界をどう捉えれば、混沌とした広がりから、必然的で美しい一連の階層を拾い上げられるかが観えてくるものなのである。
こうした観察力こそ、幼児の頃に持たない、相対的に高次な認識であり、正しく世界を観察し進むために必須の力である。
現状、われわれの社会においてしばしば行われているらしいことは、北斗の拳を見た幼児に火炎放射器を与え、Rhapsodyを聴きドラゴンクエストをプレイした幼児に剣を与えることのようである。こうして、純粋な幼児がモヒカンになり、DQNになるのである。お~クール・デスティニー ┐(´ー`)┌
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