フォーマルウェアの未来と星の王子さま
フォーマルウェアのことを否定的に書くことは違法。日本でもどこかの国のように、記事が検閲されているかもしれません。
実は、「フォーマルウェア 必要?」とか「フォーマルウェア 不要」と検索しても全くヒットしないのです。もしかして紳士服の●木さんの秘密警察に捕まるのでしょうか・・・?
冗談はほどほどにして、今日はフォーマルウェアの変化と未来について話します。
さっきのワード検索を始めたきっかけは、昨日家に届いた新しいスーツです。ワークマンのオンラインショップで去年発売された新製品を購入しました。ワーキングスーツです。
夜試しに着てみたのですが、、、とても着心地がいい。休みの日に身にまとっていても問題ないくらい、自然体でいられます。
が、同時に不安も頭をもたげました。スーツの形ではある。しかし、明らかに普通のスーツとは違うのがわかります。素材がウールやコットンではなく、化学繊維。水を弾くので、比べるとカッパに近い肌触りです。
また、カジュアルに近づいているため「シワ1つない服」を目指していません。「シミ・シワ1つないスーツが良いスーツ」と思っている方にとっては、身だしなみとして不十分。無礼とも取られかねない出で立ちです。
この服は、フォーマルウェアなのか、カジュアルなのか?どの場までなら着ることが許されるんだ?その疑問から、フォーマルウェアについて考えはじめました。
まずは結論から。
・内勤のときは、ワークマンスーツを着るつもり。
・白黒思考や保守的を避けて、柔軟に着回します。
・フォーマルウェアの基準はもっとカジュアルになる(といいな)
週末らしく長めです。ぜひコーヒー片手に御覧ください。
フォーマルウェアに触れてはいけない雰囲気
衣服の好みは色々あるので、好き嫌いはどこにもあると思っていました。ですが、フォーマルは別です。好みとはかけ離れた、一種聖域のようなオーラが個人的な意見を許さない。公共性や意識の硬さ(がんこさ)を感じさせます。
「しっかりした服装は相手への思いやりなのだ」という、反論を許さない構えです。
しかし、この思いやりは2022年現在でも正しい思いやりでしょうか?これまでは、当たり前のように「結婚式はビチっと決めたフォーマルウェア、白ネクタイ」、「葬式は全身黒ずくめ、黒ネクタイ」と決めつけていた。他の可能性を考えない、いわば思考を停止した態度だと言えます。
職場でも同じです。スーツは私が働き始めた当時、セットアップ以外の選択肢がありませんでした。
5年程前のことです、私が当時働いていた営業所の同僚で、ジャケパン(ジャケットとパンツを別々の柄で着るファッション)で通勤した人がいました。
そこに、たまたま役員が1名、営業所を訪れていました。彼の格好に気づいた役員は名指しで呼び、その服装を注意します。
「それはプライベートで着るやり方であって、仕事には合わない。TPOをわきまえなさい」と。
その注意が耳について離れませんでした。靴下の左右の色が違うくらいおかしなこと?別にいいのにな〜、という疑問が湧いたのです。
ですが、その場で彼を擁護することはせず、セットアップを着ておけばいいだろう。と当時は考えを止めました。その目的は、「非難を受けたくない」「そんなことで何かとやかく言われるのは損だ」という安易な自己防衛だったかもしれません。
職場によっても大きく違うかもしれませんが、少なくとも私の職場では年長者の固定観念が色濃く残る社風が残っていました。
時代も文化も、私の価値観も変わる
しかし、この逸話にあるような保守的な雰囲気は、この5年で大きく代わりました。きっかけは大きく2つあります。
1つ目は、オフィス・カジュアルという言葉が広まったことです。フォーマルな職場であっても、社内ではもっと私服に近い雰囲気で過ごし、職場の悪い面である息苦しさ、硬直化を治そう、という考え方です。緊張感よりも、リッラクス感が創造性を高めるという効果も狙っています。
ちなみに、この言葉自体は1990年代にはアメリカを起源に始まっていたそうです。しかし当時の日本の保守的な雰囲気に馴染めていませんでした。全国に広がるのは、2000年代。クールビズを国益として政府が推進する中で認知されてきたようです。つまり、フォーマル=相手に対する思いやりという大義名分よりも、お上の決め事はそれ以上の影響力があった、ということなんですね。私はカジュアルが好きなので、好ましい変化だったと受け止めています。
2つ目は、この2年でテレワークが浸透したことです。
自宅で仕事となると、自然とネクタイ・スーツは必要?という思考になります。会社のルールでは「自宅勤務中もスーツ着用のこと」となっていますが、、、テレビ会議が無い限り着ることはありません。その服を見るのは、奥さんと2歳の息子だけ。総務部も急な方針転換を勝手に決めるわけにいかず、そう言わざるをえないのだな。そう思うと同情します。
またオフィス・カジュアルと同じように、この仕組みが一気に広まったのは、外的な要因、つまり2020年からのコロナ感染の影響です。どちらも、止むに止まれぬ結果だと考えると、「必要は発明の母」というガリバーのセリフが重く感じられます。
オフィスカジュアルと、テレワーク。この2つの潮流の中で、一見聖域だと思っていたフォーマルウェアの決め事も必ずしも確固たるものではなことがわかってきました。
そして3つ目。これは私自身の価値観が変わってきたことです。
社会人経験を積む内、会社指示だけでなく、自分軸で考える習慣が生まれてきたことで、フォーマルウェアについても見直す動機が生まれました。
具体的には過剰マナーの悪影響、服装の優先順位です。1つずつお話します。
過剰マナーの悪影響
フォーマルウェアだからといって全て強制されるものではない。逆に、フォーマルの形を決めつけて、相手を叱責する自称マナー講師の方が、思いやりにかけている。
特に自称マナー講師に対する反発が強いですね。少し幼稚かもしれませんが、今でも少し敵対的になってしまいます。
形を重視する彼(彼女)の研修を受けていると、その端々に、形はこうであるべき、そうでない人は悪い人、良くない人、というメッセージが切々と伝わってくる。まるで時速10kmオーバーも許さない、スピード違反の取り締まりのようです。
気持ちよりも形を大事にするとこうなってしまうのだな、と残念な気持ちになります。反面教師として見ていくうちに、フォーマルという言葉をもっと柔軟に受け止めたくなりました。
服装の優先順位
服装よりも自分の心身に由来する態度や姿勢、言葉、提案内容を優先したい。服装は二の次である。
人は見かけが9割という言葉もあるけれど、それは相手と内容によるもので、絶対ではない。見かけでしか人を判断しない人からは、反発されるかもしれないが、そういった人たちと自然に距離を取れるのと考えると、逆によい効果を生む。
身だしなみ研修で耳にタコが出来るほど聞いた「メラビアンの法則」(人に与える影響は、外見の印象で50%以上決まる)この悪影響でしょうか。現場に出る社員程、身だしなみへの完璧さが求められています。とはいえ、この研究については、その誤った用いられ方がたびたび指摘されています。
記事によると、服装が無関係とは言わない。ただしもっと大事なのは、言行を一致させること、だそうです。こういった反論記事のおかげで、昔からマナー講師に思っていた疑問が払拭されました。また、自分の服装に対する価値観も再認識されたのでした。私にとって、服装は対人関係の1つのポイントではありますが、最優先ではないのです。
ただし、注意点もあります。相手目線よりも、自分の価値観を優先する態度なので、ある範囲の人たち(特に保守的な人、年配者)からは反発を受ける可能性があります。「人に嫌われたくない」というマインドセットをもっている人は避けたほうが無難です。
また、まったく分野が違うのですけれど、サン・テグジュペリの『星の王子さま』で、服が話題になっているエピソードがあります。ご存知でしょうか?初めての人もいるかもしれませんので、ぜひ引用させてください。
王子さまが来た惑星は小惑星B612である、といえるちゃんとした理由があるんだ。その小惑星は、1909年にトルコの天文学者が、望遠鏡で1回みただけだ。そこで、国際天文学会でこの発見について、すごい報告をしたんだ。だけど、人は、彼のおかしな服装のため、その発見を信用しなかったんだ。大人とはそういうものだ。小惑星B612が知られるのにはいいことに、トルコのある王様は、国民にヨーロッパ風の服を着ないと死刑にするとし、洋服を強制したんだ。天文学者は、とてもエレガントな服で、1920年に証明を再びした。すると、今度は、みんなはその意見に賛成したんだ。
この作品では「大人」の習慣をよく揶揄しています。植物や、生き物ではなく、ジャケットやネクタイばかりを大事にする。数で数えられないものや見えないものを信じない。想像しない、、、
この本は私の座右の書の1冊で、とても影響を受けています。そんな私が、もしそれでもフォーマルウェアはかくあるべき、と過去の信念を持ち続けていたら。自分の気持ちと行動が一致していない、不誠実な態度を取っていると自分でみなしてしまうことでしょう。
今後10年の未来予想図
最後に、未来の話をします。
職場・文化の多様化や地球環境保全を目指すのであれば、形式ぶった言葉や文化は死語になっていくだろう、と予測します。
これは私の職場でも広まりつつあり、肌で感じていることです。
会社が大きくなり、違う文化で働いてきた人(ITスペシャリストや海外社員など)が増えてくれば、考え方はもちろんのこと、服装の統一は難しくなります。
例えばプログラマーの同僚。仕事の仕組み、プログラムに終始頭を捻っている彼らにとって大事なのは、打ち込んだコードにエラー無く、システムが動き続けることであって、ディスプレイに反射するネクタイやスリーピースの優先順位はあまり高くありません。強くいうのであれば、ムヒカ大統領が言うところの「無駄な布切れ」です。そういった人たちにルールだからと常にフォーマルを強要する意味は感じられません。
また日本人以外の採用も増えてきました。全く違う文化で生きてきた社員に、日本由来のフォーマルという文化の型にはめ込むのが最適かどうか。それだったら、わざわざ海を越えて採用しなくても良いのでは?という疑問が先に頭に浮かんでしまいます。
高温多湿の東南アジアの人にセットアップを着てもらうのか?オフィスカジュアル発祥の米国の人に、それでも常にネクタイをしてもらうのか?そんなルールを持ち込んだら、画面の向こうでどんな顔をされるか、言うに及ばずです。
サッカー選手にはサッカーボールを、野球選手にはグローブを与えた方が、良いプレイにつながります。海外の方には、それぞれにあった働き方(身だしなみから、形式まで)を柔軟に合わえて欲しいと思っています。
あと、これは私が特に気にしていること。環境に関する問題です。
先日の記事でも、衣類を持ちすぎることが環境に悪影響があることを書きました。
格式、形式を気にするほど、自分たちで仮ぎめしたTPOに合わせて着替えなければならない。そうすると、クローゼットにはそのTPOの分だけ資源を消費した衣類が並びます。
これまで数十年(数百年)続いてた慣習も、これからの10年で見直す時期に来ているのではないか、と感じています。続けていく余裕が私達の身の回りに無いのなら、これまでの仮ぎめを止める、そうでなくても枠組みを少し減らしていければ、環境問題に対する身近な対策になります。
過度なフォーマルは贅沢。冠婚葬祭を彩るシンプルなドレスコードが最適。そうなることを予想し、願っています。
まとめ
ワークマンのスーツから始まり、フォーマルに対する価値観、そして未来の話まで広げたら、またもや長文になってしまいました。
これまでの議論と、少し矛盾するように聞こえるかもしれませんが、私自身、「職場を家と全くように過ごしたい」と思っているわけではありません。ある程度の線引き、オンオフは必要です。スウェットで働きたいとは思いません。
ただ、それが重箱の隅をつつくような堅苦しいものであってはならない。という気持ちがあります。
今の堅苦しさをフォーマルと名付けるならば、私はフォーマル・カジュアルでありたい。そして、それが10年、20年後にフォーマルと呼ばれていて欲しいです(その時は、今のフォーマルが「クラシックフォーマル」とか「オールドファッション」といったおしゃれの1ジャンルになっているかもしれませんね)
そういった訳で、10年後の夢なんていう大義名分をしょって、明日はワークマンスーツで出勤します。
今日も長文お読みいただきありがとうございました。
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