役に立たなくても大丈夫…って話です
今日は、ふと思ったことをつらつらと書いてみたいと思います。
ちょっと重いテーマかもしれませんが「人の存在意義について」です。
結論、というか私の持論から先に言えば「人は存在するだけで十分に意義がある」と言いたいです。
この世の中では、「誰かの役に立つ」ということによって存在価値が増減します。これは純然たる事実だと思います。
役に立たない者は、極論世の中からいなくなっても誰からも見向きもされません。
誰かの役に立つこと、誰かの必要を満たしてあげることはとっても大切なことだと思います。そうすることで人から感謝され、喜ばれて役に立ったその人にもメリットがかえってきます。
多くの人を喜ばせれることができる人は結果的に多くを得ることが出来るようになるようになっていますよね。
でもそれと人間の存在価値とは全く別ものです。
他者に何一つ与えることが出来ない存在があったとして、また逆に他者に対して害悪を与える存在であったとしても、その人の存在価値はあります。
社会的な見地からすれば、他社に害をなす者は、相応の罰や苦しみを受けることは当然だと思います。そんな人が存在すれば多くの人を不幸にしていきますから。
でも、根本的に人間が存在する価値とは、損か得か、幸か不幸か良いか悪いかなどとは別次元のところにあると思うのです。
創造者のような絶対者を認めるか認めないかによって価値観は変わるでしょう。
人間を造り、存在させるために意味をもたらす者がいるのかいないのか。
そこが全てになりえます。もし、人間が進化の結果であって、事象として存在していてもそこに絶対者が意味づけたのではないのなら、もちろん根本的に存在に意味なんてありません。
別に宗教的な話をしたくて書き出したわけではないんです。
結論的にはそうなるよね、っていう論理展開の話です。
すべての人は存在価値があるし、存在していい、そして幸せになるために存在していいと思います。
根本的な価値観が歪んでいれば、自ずと過程や結果にも影響を与えます。
私は高齢者であろうと障がい者であろうと引きこもりであろうと世の中から役に立たないと思われているすべての人を肯定します。
もうすぐ85歳になる父親が急に立てなくなって、実家で介護をしている母親を助けに行って感じたことです。
どんなに偉大な人も遅かれ早かれ役に立たない存在になっていきます。
それが老いるってことですから。
でも人の世話を受けるだけの人も、偉人も根本的には一緒だよねって話でした。