人生の分岐点からコロナに挑む
自分が歳を重ねれば当然周りの人間も等しく歳を重ねるなどという、当たり前すぎることを時々忘れてしまうことがある。
例えば私には4つ離れた弟がいるが、時々彼を中学生くらいの気持ちで見ていることがある。もうとっくに父親で、こっちだってアラフォーと呼ばれる世代なのに。実家で会うと中学生男子が突然オムツを変えたり子守をしたりしていて、錯誤に陥るのだ。よく言われるところの「子供はいくつになっても子供」という感覚と同じなのかもしれない。私にとって4つ下の弟はいつまでもかわいい弟なのだ。きっと私にとって、彼のかわいさ最盛期が中学生くらいだったのだろう。
先日、高校時代の友人達と久しぶりに連絡を取った。彼女達とも話していると女子高生の気持ちに戻ってしまうのだが、このときはちょっと違った。グループのうちの一人、海外で暮らしている友人が言うのだ。
「そろそろ日本に帰ろうかと思っている」
これにはかなりびっくりした。20代前半の頃、歳上の恋人を捨てて海外へ渡り、現地の風土が肌に合って「もう日本では暮らせないかも」とまで言っていたような子だった。いつかは帰国するかも…と考えてはいたそうだが、コロナの一件でさらに考えが改まったというのだ。彼女は先日、離れて暮らす実家の両親が心配になりテレビ電話をしたが、そのとき父親の顔がすっかり老け込んで見えたという。海外生活は長いが年に1回は帰国していたし、そのたびに実家に帰っていたはずだ。それが突然、完全帰国を考えさせるほどに、親の老いが気になったのだ。
彼女の話に私は、ああ、わかるよ。と返した。私の父親は先日体調を崩して入院した。入院直前にビデオ電話で顔を見たとき、あまりのやつれ具合に思わず「やだひどい顔、見たくない!」と文句を言ったほどだ。下手をするとこの顔合わせが最後になるかもしれない、重い病気だと知ったのはその一週間後の話だった。
女の30代は厄年が多いことで有名だが、これには自分の親が老いなどによって体調を崩したりすることも含まれていると思っている。後厄は周りに不幸がある、なんてよく言われるけれど、よほど若く産んでいなければちょうど60歳前後の親がいる年頃だ。「厄年」というものが生まれた背景にはきっと、神話や伝承のように実際に起きた出来事が織り込まれているような制作背景があると思う。昔々、30代の女性には次々災いや試練が起きましたとかそういう。つまり私たちアラフォーは、人生の分岐点に立っているのだ。
人生の分岐点にコロナという随分とスケールの大きい試練を与えられ、親の老いについて考える私たちはすっかり女子高生から大人の女になっていた。
父の入院に際して言えば、いつもはつらつとして強気な母がまるで役に立たず、病院以外に対する諸々の手続きは私がやった。母は今、自分と父を鼓舞して日常生活を送るのが精一杯だ。いつかは来ると思っていた「親の介護」という役目が現実味を帯びて、視界の端をチラチラする。
知人の母親はコロナの影響でこもりきりになり、アルツハイマーを発症したという。歳を聞くと私の母と同い年だった。
子供はいくつになっても子供だけど、役割は変わっていくのだと思う。
これからは私が、両親をあらゆるものから守っていかなくてはいけないのだ。例えばコロナから、老いから、オレオレ詐欺から。幸い私には頼れる夫と、盛りは過ぎたがかわいい弟がいる。みんなそれぞれ歳を重ねて、人生の分岐点に集合してきた。多分この先の困難も乗り越えられる。多分。
海外に住む友人とは、一時帰国の目処が立った頃に再会する約束をした。きっと前みたいに女子高生気分は(少ししか)味わえないけど、これからは親を支える同士としての会話が増えるのだろうなと思う。変化していく関係も悪くない。