鮮やかな記憶とすり抜けていく言葉
人はそれぞれ、記憶を留めるためのチャンネルを持っているようだ。
今日話していた人は、ミーティングをするとき、話しているうちに自然に手が動き、メモのような、図形のようなものを書いていき、それがどんどん溜まっていくらしい。
言葉としてメモをとるのではなく、グラフィックができあがるそうだ。
その人はワードだけで記憶を留めるのがどうも苦手だと、自分で気づいたらしい。
その人は、旅先にはクロッキー帳とお気に入りのペンを持っていくらしい。
(いつも、紺色のインクが入った万年筆を使ってるけど、これなのかな。)
そして、旅先で出会った印象的な情景を、デッサンするそうなのだが、その持論がすごい。
デッサンとは、見たままをそのまま描くのだけど、"見たまま"とはどういうことか。
そのときの時間、温度、空気、その人の心情、いろいろなものが複雑に絡まり合って、"その人の"、"見たまま"が立ち現れる。
その上で、感じたまま、見たままに描くらしい。
出来上がったものは、スマホで撮ったものとは違う、その人の目のフィルターを通して"見えているもの"が描きあがるそうで。
そうでないとその人には記憶されないそうだ。
わたしのユニットの相方もそうだ。
話してるとき、気づくと何か描いていて、気づいたら絵ができあがっている。
アーティストならではの表現方法だ。
そういえば、わたしはそれが写真かもしれない。
「色がすごい鮮やかで、こんなに印象的な情景だったのかなって思った」
一緒にいた人から、わたしの写真を見てよく言われる感想だ。
1人ではなく、何人にも言われるので、きっとそうなんだろう。
自覚はないのだけど。
たしかに、現実とは少し違うかもしれない。
でも、この情景をみて、わたしが感じた色彩はこれくらい鮮やかなのだ。
そこには、わたしの感じるものと、感情、温度、時間、いろいろなものが重なり合って、表現という一つのものになっているのだろう。
そして、わたしはまた思った。言葉というものが自分の中に残りにくいと。
友達と、いろんなことを話す。
でも、話した内容を、ほとんどの場合あまり思い出せないのだ。
お酒の場でのことだからかな、とか思った。
でも、そのときの情景はかなり最初から最後まで、写真のような、動画のような、映像としてわたしの中に残っている。記憶はある。
なのに、話していた言葉は、わたしをすり抜けていってしまったように残っていないのだ。
そういえば、歌を聞いていても、歌詞がほとんどといっていいほど覚えられない。
歌詞カードを見ながら覚えたくて覚えた曲以外、聞いてるだけでは歌詞は、やっぱりわたしをすり抜けていってしまう。
わたしは『言葉』にあまり興味がないのかな。
でも、素敵な言葉には反応できるのだけど。
新たに、自分のわかったところと、わからないところと出会った。