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薄れゆく記憶が切なくても

24時を回った頃にシャワーを済ませ、冷房が効いた部屋で、ぶどうを食べながらハイボールを飲む男。おしゃれな生活に見せかけているわたしだ。

先週実家に帰ったときに祖父にウイスキーをもらい、東京に持ち帰った。
12年もので高級らしいが、残念ながら孫はお酒に詳しくない。
実際は、そのウイスキーが美味しいのかどうかが、あまりわからなかった。

安いハイボールと味が違うことが感じられたことだけで安堵しているレベルの孫だが、引き続き身内のよしみで美味しいものを恵んでほしい気持ちは変わらないのである。

その代わりに孫は、祖父が若い頃には食卓に並ばなかったであろう洋風で「ハイカラ」な料理をこれからも作ってあげるという交換が我が家では行われている。

祖父の人生の中で「90代は孫がたまに美味しいものを作ってくれたな〜」と彼の思い出に残ってほしい気持ちで、取り組んでいるようなところもある。

いつかは彼の記憶の中で、孫の私のことは消えるかもしれないけど、こちら側には印象的な出来事として今後も記憶に残っていく。

祖父は作って出来上がった料理を食べるのは一瞬だが、こちらは普段Youtubeで美味しそうな料理を見るとiPhoneのメモに残すし、予定を何週間も前からブロックするし、当日も祖父の家で冷蔵庫を見てから買い物に行くし、その後料理もする。(洗い物は父がやってくれる、ありがとう。)

つまり、こっち側の方が実は記憶に残る作業をたくさんしているのだ。
人のために何かをするっていうのは、往々にしてこうだ。
でも、こういうのが、それはそれで幸せだったりする。

誰かの人生に、自分の名前が刻まれることにとても幸せを感じる。
誰かの特別な瞬間に立ち会えたり、一緒に過ごせたり、その特別な瞬間を自分が作れたり、というのにとても幸せを感じる。

自分がここにいる意味を感じることができるのだ。

人間は節目ごとに、お世話になった人・一緒にいてくれた人・大切に思った人などがいて、誰もがその人たちと過ごした時間を胸に刻んで生きている。(のだと勝手に思っている。)

誰もが誰かの人生の中に刻まれているし、刻み込んで生きている。

多くの人の人生の中で、自分の名前が刻み込まれることを願っているし、それは手触り感のある体験として刻み込まれていてほしい。(フォロワーをたくさん増やして憧れられたいわけではない、ということ。)

また、別に大袈裟なやりとりをする必要はなく、日常のワンシーンでもいい。誰かの人生に、誰かが刻まれることはある。

昔知り合いが「自販機でジュースを買ったときに、お釣りよりも先に飲み物をとる」というこだわりを持っていた。マイケル・ジャクソンが大好きだった年上の彼女は不思議な人間だったが、その中でも一番意味不明だったこだわりである。

彼女はその理由を「お金にがめつい人に見られたくないから」と言っていた。別にお釣りを先にとったからといって、がめついと思われることなんてないのに、それ以来私は数年間その癖をなぜか真似するようになっていた。

今は自販機で飲み物を買うこと自体が減ったし、買うとしても電子マネーなので、残念ながらそのこだわりを彼女が発揮するシーンは訪れていないだろう。ただ、その変な癖は私の中に不思議な記憶として刻み込まれている。

刻み込まれるのは、そんな些細なことでもいいのかもしれない。
皆さんからもなぜか覚えている不思議な癖があれば聞いてみたい。(ラジオパーソナリティみたいな気持ち。)

一方で、自分のことが刻まれているといいなと思う気持ちと同時に育ってきたのが、それを強制してはいけない・当たり前だと思ってはいけないと思う気持ちだ。

大人になっていくにつれて、さまざまな形態の人付き合いが発生し、さまざまな考え方の人間に出会った。

私と同じように、さまざまなことを自分の中で大切なシーンとして捉えて、刻み込んでいるような生き方をしていない人にもたくさん出会った。というか、数人くらいしか温度感が合う人に出会わなかったので、自分のこの性質が特徴的なのだと知った。

自分が大切なワンシーンとして刻み込んでいる出来事も、その人からしたら別に大切ではなかったり、当たり前だったりすることがある。もちろん逆もある。

この温度感が合う人と一緒に生きていけることはとても幸せだが、そんな確率は特に私の場合は、極めて低い確率になる。
「君は何も覚えていなくてもええんやで。大丈夫、俺が全部覚えているから。」という気持ちになってしまうことがある。

アドラーは課題の分離と言ったらしいが、要は人に期待しても自分でどうこうできないので、自分でどうこうできることだけにフォーカスして生きていくのがええで、という考え方である。

悲しさや儚さを兼ね備えながら、奥にある願いがちらっと見え隠れしてしまっているこの考え方が私は大好きだ。

本当の本当は、最高の瞬間を同じ熱量で相手と刻み込み、同じ熱量のまま一緒に未来を重ねていきたい。でもそれが無理だ(というか、それができる確率があまりに低すぎる)から、相手の中に自分が刻み込まれることは一切期待をしないで、自分の中に大切な瞬間が積み上がることだけを淡々と粛々と重ねていく。

悲しいような、幸せなような、そんな人生の進め方について、私は気に入っている。

たまたま、その熱量をご一緒できる人と出会えることを本当の本当は心の奥底で願っていながらも、それでもそんな素振りはみせず、私は今後も「薄れゆく記憶が切なくても〜」と鼻歌を歌って何食わぬ顔をして生きている。

大丈夫、少なくとも、こちらが全部覚えているで!

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