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擬制と信仰、ある男とバーチャルシンガーとの結婚式に寄せてのスピーチ

@akihikokondoskの結婚式でお話させていただいたスピーチの原稿です。

ただいまご紹介にあずかりました、新郎友人の吉澤と申します。

私は、新郎の勤務先と密接な関係にある松戸市に地方公務員として今年の3月まで勤務しておりました。そこでは、萌えキャラを利用した防犯ポスター・キャラクターの企画やディレクション、地方創生を目的としたコンテンツ産業の振興や秋葉原まで13時間というノベルゲームのプロデュース、また新婦である初音ミクさんとコラボレーションしての赤い羽根共同募金等に関わらせていただき、そのような仕事をさせていただく中で、新郎である近藤さんと知り合い、今回、光栄なことにスピーチのご指名を賜った次第です。

さて、私の自己紹介はここまでにして、本題に移らせていただきます。
このたびは、顕彦さん、ミクさん、ご結婚おめでとうございます。まずもって、心より御祝いを申し上げます。また、この晴れの席にお招きいただき、たいへん光栄であると感じております。

この会場には、単著を出されている先生や、各界の名士にもお越しいただいております中、はなはだ僭越ではあるかと思いますが、ご指名でございますので、私、吉澤よりお祝いを申し上げたいと思います。

結婚式のスピーチと言いますと、よく三つの袋であるとかそういったスピーチがよく話されます。しかし、今回の結婚式では、このような話はあまりなじまないように思っています。そこで、私が過去、市役所で役人をやっていたということに引き付けて、すこしお話をはじめさせていただきたいと思います。

さて、みなさん婚姻届を見たことはありますでしょうか? 茶色で枠が印刷されたフォームになります。これを、必要事項を記載し、新郎新婦と保証人が記名押印し役所に届けると戸籍上の婚姻が成立します。この制度の基礎は明治時代につくられたものですが、それ以来、役所は戸籍制度に基づき、役人が一つ一つ、人が生まれて、結婚し、死ぬまで記録をしつづけてきました。これは、とても大変なことであろうと思います。

しかし、これは結局のところ、役人が婚姻関係を証明できるというだけの制度であり、それに付随するかたちで税制や様々な権利義務関係などが法的に整備されているにすぎません。よく、芸能人の結婚が「入籍」と呼ばれることがありますが、はたしてこのような呼称が本当に適切なのでしょうか? そもそも、よく考えれば戸籍制度が整備されるよりも前から人々は結婚してきました。また、異なる制度の国でも人々は結婚しています。私は役人時代に戸籍事務に関わったことがありませんが、もし私が戸籍事務に関わっていたとして、私が端末のキーをタイプしてデータを更新することそのものに、どれほどの意味があるのでしょうか?

話を少し変えましょう。今日、私たちはこの結婚式に参列しています。しかし、みなさんは「結婚」というものを指でさし示すことができるでしょうか? では、この「結婚式」も指でさし示すことができるでしょうか? もちろんこの「結婚式の会場」ではありません。では、もう一つ伺いましょう。テーブルの上のグラスを指で指し示すことができるでしょうか? お分かりになりましたでしょうか? そう、結婚のような「状態」と呼ばれるようなものはテーブルの上のグラスと違って具体的に指でさすことができません。このような、実体として存在しない「結婚」という状態はいかに示されるのでしょうか。さきほど述べた通り、法律上の婚姻はあくまで法律上の意味しかありません。

では、この指でさすことができない「結婚」は、どうやってこれが、いわばこの世界に立ち現れてくるのでしょうか。役所の公文書でしょうか? 皆さんご存知の通り、この結婚は法律婚ではありませんし、先ほど言った通り、役人が端末のキーをタイプすることそのものに意味はありません。そう、結局のところ、こういったものは、私たちがここで今結婚式が開かれていること、二人が結婚していることを「そう認識」しているからこそ、それが存在しているのです。つまり、私たちが「そうであるとみなす」ことによって世界に立ち現れてくるのです。私たちが「そうであるとみなす」ことによって生まれた共同幻想こそが、結婚というものを担保しているということを私はここで強く主張したいと思います。

さて、本日お集りいただきました皆さまは、私も含めてオタクと呼ばれる人が多いかと思います。オタクにとって「そうであるとみなす」ということは、非常に重要な意味を持ちます。「そうであるとみなす」ということはつまり、フィクションを受容するということです。フィクションを楽しみ、そこに感動し、あるいは様々な意味づけを行うオタクは積極的にフィクションを受容する存在と言えます。さらに考えてみましょう。先ほど「結婚」という状態を指でさして示すことができないと言いました。つまり、これもまたフィクションであるわけです。さらに言いましょう、アニメやゲームなどのフィクションであるコンテンツを見て感動したり涙をながしたりしたとき、たとえ作品がフィクションであるとしても、その感情そのものは明らかに現実そのものであるということです。もっと言ってしまいましょう、私たちの存在も同様です。SNSのアカウントやVRのアバター、あるいは単なるビジネススーツをまとい、内輪のジャーゴンを話す私たちはもはやキャラクターに過ぎません。仕事で、趣味で、様々なロールを演じる私たちは本質的にキャラクターにしかなりえないのです。

つまり、こういうことです。そもそも、今の社会にある結婚などの仕組みは本質的にフィクションです。そして、それによって揺さぶられた感情は現実そのものですし、その感情を持つ我々は社会というフィクションにおけるキャラクターに過ぎません。そして、フィクションによって感情が揺さぶられるという意味において、社会に広く認められているか否か、以上の違いを多種多様なフィクションの間に認めることはできないのです。

では、私含めて本日ここにお集りいただいた皆さんに何ができるのでしょうか。今日、こうやってお二人の新しい門出を祝うことなのでしょうか。もちろん、それも大切なことだと思います。しかしながら、私たちにいかなる権能があって、この結婚を特別なものとして聖別できるのでしょうか。大変残念なことに、神ならざる身の私たちにそのような権能はありません。もちろん、法令や政府にもそのような権能はありません。私たちにできることというのは、私たち一人一人がこのフィクションを他のフィクションと同じように信じることではないでしょうか。私たちがこの結婚を信じること、このことこそがこの結婚を真実たらしめる条件ではないでしょうか。そう、この歴史的な場所に立ち会った我々が人類史にその足跡を刻むことにより真実が真実となるのです。

最後に、私たち人間は常に文化の檻にとらわれています。ある一連の文化を当然のものとして受け入れています。もし、この文化の檻を出たとしても、別の文化の檻に入らざるを得ません。これは、いわば人間としての宿命です。しかし、だからこそ私たちは意識的に文化の檻を選ぶことができます。そう、もう何も言わなくてもみなさんお分かりになると思います、私たちの選ぶべき文化の檻が何であるかを。

長くなりまして大変恐縮ではありますが、以上でわたくしからのお二人へのはなむけの言葉、そして、皆様へのお願いとさせていただきます。

顕彦さん、ミクさん、本日はおめでとうございます。

ご清聴ありがとうございました。

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同じ結婚式に参加された白饅頭氏も記事を書かれています。特に、群と個に関する議論は非常に興味深く思います。

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吉澤
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