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「愛の夢とか」 川上未映子 著 講談社文庫
短編小説集です。
川上未映子さんの文章が好きです。思わず立ち止まってしまうフレーズがある。矛盾もある(作者があえてそうしたのだろうけれど)。その中で、情景のビジュアルなイメージが浮かんでくるし、そこから妄想も働き始めます(時に暴走します)。
ビアンカ、でお願いします。(p.24)・・・「愛の夢とか」
最小と最少がおなじもの。(p.36)・・・「いちご畑が永遠につづいていくのだから」
最大と最多が笑うもの。(p.38)・・・「いちご畑が永遠につづいていくのだから」
悪魔がきたかと思いました、と声がしました。(p.71)・・・「お花畑自身」
「でも誰かに飼われるっていうのはそういうこともこみこみなんだってこと、あなたはこれまで一度も考えなかったんですか?」(p.102)・・・「お花畑自身」
二度と会えなくなるのは、夫なのだ。生きている夫のほう。置いてゆかれて、置いてゆかれたと感じることができるのはわたしではなく夫なのだ。(p.128)・・・「十三月怪談」
死ぬことは、見えなくなること。(p.129)・・・「十三月怪談」
こうした表現に出会うたびに、僕の頭の中の妄想マシーンが、静かに働き始めます。
「愛の夢とか」は、とても印象に残りました。70代にも見える60代にも見える隣人の女性テリーは何者なのか?どんな人生を歩んできたのか?想像が膨らみます。
「十三月の怪談」は、とても好きな小説です。
時子の見てきた世界と、潤一の見てきた世界は違います。肉体という縛りがなくなったとき、想いは、パラレルワールドの中で彷徨って行くのかな?などと思いました。十三月とは、現実にない月なので、死後の世界を意味しているのか?それとも死後の世界も包み込む異世界を象徴しているのか?などと想像しました。でも、また、パラレルワールド同士が混ざり合うこともあるのかもしれません。そこは、「じぶんがなんさいで、ここがほんとうはどこで、そしていまがなんがつなのかももうわからないようなところ(p.147)」なので、矛盾なんてどうでもよくなるのでしょう。
死者は自分の死を見ることができないのだろうと外にいる僕らは思っています。でも、僕らは、実は死そのものを体験することができない。なにしろ今生きているのですから。でも、死者は死者で、自分たちの世界を体験しているのかもしれません。
この辺りから、僕の想像は妄想にパワーアップし、暴走を始めます。
「死はあるみたいだけど、生きている間は体験できない」って、ブラックホールに落ちて行く人を、外にいる僕らが見ることができないのと似ているなぁと思いました。重力の作用で、僕らからはブラックホールに落ちて行く人の時間が止まって見えます。だから、その人はいつまで経ってもブラックホールに落ちていかない。でも、ブラックホールに落ちて行く人たち自身は、しっかりとブラックホールに落下していく経験をするわけで・・・。
そうか!ブラックホールの中の世界も、僕らからにとっては十三月なのだ!
そういえば、「愛の夢とか」の中で、テリーが「愛の夢」という曲を間違えずにピアノで弾き切ることができたのは、主人公の「わたし」がテリーの家に通いだしてから十三度目のことだった。
十三って、魅了的な数字なのかもしれないと思いました。
・・・と、ここまできて妄想から覚めました。
「十三月の怪談」の時子のひらがなの独白(p.147)が切ないし哀しいのですが、なんか暖かい気持ちになりました。
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