帰して貰えませんでした。
「…このまま帰すわけにはいかんわ」
気怠い頭を起こして見上げた時計の針は、終了コールの鳴る2分前を指していた。あー、という掠れた声は出なかった。その代わりに再び突っ伏した。「…とりあえず、シャワーを浴びてきて頂いても、いいですか」
風呂屋である。ここは風呂屋である。大事なことは二度述べる。人生で"セルフサービス"という単語を初めて認識したのはサイゼリアだったと思う。小さい私は「なんだかカッコイイ」と感じたけれど、要はアウトオブサービスとさして変わらない。どちらかというとアウトオブ眼中、みたいなニュアンスで。DIYと言った方がまだ的を得ている気がしてしまうのは、きっと私が日本人だからなんだろう。
指一本動かすのが怠い。ままならない。このまま寝てしまいたい。シャワーの音を耳に次から次へと溢れる本能に蓋をする。私のプレイスタイルは受け身だ。この間、ベテランのキャストさんから聞いた、受け身の方が肉体的疲労は大きいのだと。そして横でシャワーを浴びているお客さんが言っていた、最中私の筋肉のリミッターが外れていると。肉体的には全く不向きなこの仕事に、そんな理由で、「一日ご予約三本まで」「最低隔日出勤」という制限が私には常に掛かる。嫌らしいと俗に言われる話をするが、長時間の連勤が出来たなら、かなりの額が稼げるこの業界で、そんなちまちました稼ぎ方を(それでも同年代の友達の月収よりは少し多いけれど)しているのは、偏に、この仕事が好きだから。
そんな自分に溜息を吐いた時だったか、冒頭の言葉を聞いて思わず瞬きを零した。「このまま帰りたくないね、一緒に居たいね」という言葉に聞き覚えはあるが、「帰す訳にはいかない」というフレーズは初めて聞いた。何だって?
「30分延長してええ?」
あれよあれよという間に、1万6000円というお金が運ばれて行った。延長料金である。そしてシャワーをなんとか浴び終えた私は、バスタオルを敷き直したベッドに寝転がされた。うつ伏せに。裸で交わって居る時より逆に恥ずかしいのは何なのか。そして掌が肩を掴む。首を押す。背筋を解す。
「ホンマに大変やったんやねぇ、肩バキバキで指入らんもん」
指入れサービスは本来股の奥だと言うのに、せっせと肩甲骨が指圧される。ぐりぐりと筋肉の奥を掻き回される。途中から何処をどうマッサージされていたのか分からない。そのくらいに心地良かった。疲れも相俟って。そう、疲れていたのだこの日は、色々あって。人生生きていれば色々ある。順風満帆とは行かない。そして幾つか不運なことが重なると人生を呪いたくなる、人生というものに非は無いのに。サラリーマンだろうが学生だろうが風俗嬢だろうがそれは同じだ。そうして呪う度に体が強ばって居たのだろう。リミッターが外れるのとはまた別の方向に。
シているのと同じくらいにあっという間の時間が過ぎた。朦朧とし沈み掛けていた意識は、「お客さん、時間ですよ」という声に引き上げられる。そうか、時間か。おいくら万円ですか。けれど現実は、セルフサービスどころか、役割が反転している。金額を支払ったのも相手、サービスをしてくれたのも相手。どういうことなんだろうと疑問符をぐるぐると渦巻かせ乍ら、ふらふらと立ち上がる。今度こそ寝てしまいたかったけれど。
体の疲労は矢張りかなりの物ではあったものの、その優しさに心が支えられたのを感乍ら帰路に着いた。
「おおきに」
睡魔に襲われつつ電車の中で、彼に向かって心の中で礼を述べた。解された肩や腰に、電車の揺れが酷く心地良かった。