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人類皆総彫師


"ささら"という名の前は、川崎堀之内で"はずき"と呼ばれていた。その前の名は何だっただろう。初めて源氏名という文化を知ったのは池袋の古びた小さな店だった。幾らかの変遷を経て今振り返れば、それぞれ名に置いての私は少しずつ、異なる顔をしていたのだと思う。

名が体云々という話でも、アニメよろしくキャラクターを此方が設えているという話でもない。当然中身は同じ人間、そこに一貫した物は流れている。


一つのSNSでアカウントを複数持っている人は多いんじゃなかろうか。ビジネス用とプライベート用。裏垢。愚痴垢。趣味垢。千手はともかく千眼菩薩よろしく顔は複数あれど身は一つ。でもきっと観世音の名の通り、その先の世を見るから顔が違うのだ。向けた先の世界を映し込んでいるのが顔なんじゃないかとふと思う事がある。鏡に我を映すとも言う、それは神道の話になるけれども。


私自身どの顔の時も、本当に人の縁には恵まれていたと心底思う。店が違えば毎度挨拶する相手も初めましての相手も違う。だから今は吉原で、時々入れ替わるものの個性的なお店の人達とそれから初めましてやお久しぶりのお客様方。部屋で目にするのは年季の入った柱に重厚なバスタブ、私は使わない巨大なマット、高く積み上げられたブラウンのバスタオル。その全てが、この「ささら」の顔を作っているんじゃないかと思う。風俗嬢としての自分をどうこうしようなんて、今まで考えたこともないのだし、そんな器量をそも持ち合わせてはいない。



「貴女はお客さんに愛されてるね」


そう言って頂いたことがある。鶏卵とは違う、私がそうだから愛されたんじゃなく愛されたから私が今そういう顔をしているのだと思う。


そういう意味で源氏名を生きる間は何処までもが幻想だと感じる一方、一人ひとりから頂いた物が折り積み重なって私を形造っている圧倒的リアリティが此処に在る。そして何より私自身がそれを一番に楽しんでいる。作られた土台から「今度はどんな顔にして貰えるのかしら」なんて彫られながら菩薩も思っていたのかもしれない────と考えてしまうのは些か烏滸がましい気もするけれど。


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吉原嬢 ささら
出勤前に飲むコーヒー。ごちそうさまです。