私が祖母とさようならするまで【中編 2023年5月】
庭の綺麗な旅館で、初めて祖母と一泊
母から、休みが取れないかと連絡が来た。
祖母を旅行に連れて行ってあげたいそうだ。
祖母はその後も施設で暮らしているのだが、認知症の発症、加齢による足腰の状態など、ここ最近の祖母の様子を考えると、なるべく早い方がよさそうだった。
新潟県内の祖母の生まれ故郷にある施設に、昔ご近所さんだった仲のいいお友達が暮らしているという。
母は祖母をそこに連れて行って、お友達に会わせてあげたいと思っていた。
そして、その旅行に横須賀に住む祖母の弟夫婦(私にとって大叔父とその奥さん)も同行してくれるという。4人中3人が80歳オーバーの旅。
旅行の日程は1日目にそのお友達に会いに行き、少し移動して旅館に一泊。次の日に祖母の施設に戻るというもの。仕事の都合ではじめから同行はできないが、私は1日目の夜、旅館で合流することにした。
思えば夏休みに遊びに行くばかりで、祖母とまともに出かけたことはなかった。ましてや泊まりは今回が初めてだった。社会人になって何年も経つのに、私は祖母をどこかに連れて行ってあげたことがなかった。
私が旅館についたのは夜で、部屋に入ると祖母はすでに寝ていた。お友達と会えてたくさん話して、疲れてしまったようだった。
私が部屋に入る時扉を開ける音が大きかったのか、起きてしまい迷惑そうにこちらを見ていた。ごめんね。
祖母の弟夫婦とはじめまして。
祖母は早々に寝てしまったが、私はまだ大叔父夫婦に会えていないので、挨拶に行き、今日会ったお友達との話を聞いた。
どうやらそのお友達の息子さんが施設までの送迎をしてくれ、祖母をおぶって駅の階段を登ってくれたらしい。バリアフリーではない駅がある驚き。
祖母はお友達に会えて凄く楽しそうだったようだ。
祖母の弟にあたる大叔父は、普段は横須賀に住む寿司職人だった。コロナ禍を経て息子さんにお店を譲ったという。
大叔父は目元が祖母によく似ていた。私は性格も顔の造形も母方の血が濃い。とても初めて会う気がしなかった。耳が悪く、補聴器があまり自分に合わなかったこともあり、至近距離で話してコミュニケーションをとっていた。いつもにこにこしていて、穏やかな人だった。奥さんはとってもチャーミングで、とっても素敵な夫婦だった。
大叔父の奥さんと話をしていて、なぜ結婚に至ったか、という話題になった。
大叔父は別の方とのお見合いが決まっていた。
が、相手は気が乗らず「都合がつかなくなったと言うから、代わりに行ってくれないか」と打診され、代わりに行ったのが今の奥さんだったという。
え、友達のお見合いの替え玉(?)で結婚したの。
凄い。
反射で言ってしまった私の失礼な反応にも、奥さんは笑っていた。奥さんは、私って本当に運が良くて。お父さんと結婚できて良かった。と笑顔で話した。
叔父さんは耳が聞こえづらいから、字幕でテレビを見ていて気付いてないけど、それがまた、なんか良かった。そしてその大叔父と私は血が繋がっていると思うと、嬉しかった。
次の日の朝、ご飯を食べ、お茶を飲みながら母と祖母と大叔父夫婦と話をした。私は祖母が大叔父に「姉ちゃん」と呼ばれているのを見て、私にとってのおばあちゃんは、母で、姉で、義姉で、お友達なんだ。と思った。
お昼過ぎ、私たちは旅館の前で写真を撮り、大叔父夫婦とは別々のタクシーに乗り別れた。
私と母は、祖母を普段暮らす施設に送るため特急に乗った。祖母は席に着くとすぐ寝てしまった。
その時、笑顔でいられればいい。
たとえ忘れていくとしても。
祖母が認知症になり、自分が誰かわからなくなることはなかったが、短期的な記憶力がほとんどなくなり、直前にしていたことや、一度言ったことを覚えることができなくなった。
母は、祖母が同じことを何度も聞いてきたり、言ったことを忘れてしまうたびに、悲しさと共にやはりストレスを感じていた。
つい、語気が強くなり責めるようになってしまった時、さっきはごめんね。言いすぎたね。というと、祖母は「いいのよ、親子なんだから」と言っていたという。そういう祖母もきっと、さっき何を言われたのかは覚えていない。でもその時の文脈から考え、いいのよ。と言っていたんだろう。
祖母は絶対、人を悪く言わなかった。変わっていってしまうことがあると同時に、変わらないところも確かにあると思えたことは、少しだけ深刻さを和らげてくれた。
旅行に行ったこと、仲良しのご近所さんに会えたこと、実の弟夫婦と旅行に行けたこと、そしてこの先に起こる小さなことから大きなことまで。もしかすると、私や、家族や、お友達のことも忘れて行くのかもしれない。
私は今回旅行の後半に同行することを決めてから、その事実を目の当たりにするのが怖かった。
そしてやはり、帰りに祖母の家の近くでご飯を食べていて、昨日お友達に会えてよかったね。と話していると、
「昨日会ったの?◯◯さんに?」
と聞き返されてしまった。
それにも母は
「いいの、その時楽しそうにしていれば」
と返していた。
その時のことを、祖母は思い出せないかもしれない。ただその瞬間には楽しそうに話している姿が確かにあったのだから、それを私たちがしっかり覚えていればいい。この先もそんなことが増えたら、もっといい。
私は、その時はうまく受け入れられなかった。
だって覚えてる方がいいじゃん。忘れることって悲しいことじゃん。まだまだ私には、受け入れるだけの強さはなかった。
でも今は、助けを借りながらゆっくりではあっても、自分で歩くことができる。ご飯も自分で食べられる。
また来年も来れたらいいね、なんて話していた。
しかしこの約半年後、祖母は施設で転倒し、大腿骨を骨折したことで、車椅子生活になってしまう。
この旅行は、私が祖母とした最初で最後の旅行になった。
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