2022.3.10. 11年前のあの日を前に思うコト。
3.10.2022.
3.11. が近づくとソワソワする。
壱岐にきてからの僕にあった人は、僕は「壱岐の人」だと思うし、イルカの人だと思う。でも、僕はそのちょっと前は、国境離島や農水省関係のコンサルタントで、その前は花火の人で、その前は広告代理店の木端営業でした。2011.3.11. に僕の人生も大きく変わったし、生まれてきた意味を考えた気がする。そこから11年目の3.11.を迎えるにあたり、今日僕が離島にいき、壱岐に移住するきっかけをくれた仲間達と再会した。偶然に同い年。全然違う道をいく三人のおっさんと温かく見守ってくれるおねーさま。なんか今日、この日に会えたこと、離島を回った時間を思い出して、さらに11年前の3.11.をより色濃く思い出した。何かと11という数字に引っ張られてきた僕の人生。明日の3.11.からは何が起こるだろう。娘の卒園式で東京にいるんだけど、ここから何が変わるんだろう。そんなことをつい考えてしまう。明日は黙祷を捧げ、あの日から始まったことを思い出し、これから始まることをつらつらと書いてみよう、と思ってる。だから、今日は、あの日のことを思い出したことを書いておくことにしてみた。(以下超長文→備忘のために、フルでコピペしてnoteにもあげておこっと)
2011年の3月10日なんて、いつも通りの当たり前の生活で、ただ楽しいサラリーマンしてた。奥さんの家にマスオさんしながら、生まれたばかりの子供を見て楽しんでた。地域のことなんて知らないし、ほとんど興味もなかった。唯一興味があったのは、海と海の側で遊べる場所だけ。移住なんて考えもしないし、いつか会社を辞めたら、海の学校の校長やるぞ!くらいなイメージしか持っていなかった。それが3.11.からガラッと変わった。日本橋の街の中でたくさんの人が右往左往している感じ、ハイテクなビルが何もできないコンクリートとガラスの閉じ込めるだけの要塞になり、便利なはずのエレベーターは独房になった。幸い老舗の喫茶店だったので、難なく脱出し、安全を確保した。小一時間歩いて何も知らずに家に帰ると不安そうな妻と子供と義父母がいて、状況を知った。「地震」だと思っていた災害には「津波」がついていた。自分がゆかりのあった地域を海が飲み込んだ。大好きな海が思い出の場所を奪っていった。でも、大好きな海は時として、大事なものを奪っていくことを僕は知っていた。大槌町の心配と海がしたことへの責任(そんな物ないんだけど)と、広告屋にできることを考え始めた。日々、被災地全体の苦しみや悲しみを感じながら、何もできない自分が悔しかった。
3.31. 東京湾の花火が中止になることを聞いて、その花火を持って東北被災地で花火大会をやろう!と「決めた」。目の前にいた大好きな同い年のクライアントに相談し、ふと思いつく仲間に声をかけ、社内の大好きな先輩や後輩にも相談した。会社を巻き込もうと信頼する偉い人にも相談したら、「会社じゃできないから自分でやれ」と言われて、一気に突っ走らなきゃいけなくなった。どこにもネガティブなことを言う人は一人もいなかった。そういう仲間に恵まれたこともまた奇跡。一番相談したかった一番狂った先輩は「忙しい」と言って全然会えなかった。諦めかけてたある夜、普段全然行かないのに何故か恵比寿横丁に行くことになった。そしたら、その狂った先輩はお客さまと「飲んで」いた。そりゃ忙しいよね。。。お客さんもいる前で、無理矢理突撃。これやりたいから手伝ってください。と拙い企画書を見せて説明。「めちゃいいじゃん!やる!」と決まった。横にいたお客さんは当時コカコーラにいた、今は大切な仲間になった男。彼もえ!いい!うちもなんか一緒にできないかな?といきなり話が走り出した。
4.10. 開いたばかりの東北道で、東北にいく。初めて被災地を訪れる瞬間。狂った先輩は「はじめの一回は一回しかないから、映像撮るから。カメラマン乗せていって。」全力で拒否し、巻いて逃げようとまで思ったけど、先輩とカメラマンの機転と熱に押され、初対面のカメラマンと一緒に東北は自分のゆかりの土地に向かっていった。大好きなガンズアンドローゼズとブルーハーツを聴きながら。
釜石について、大槌に向かう途中。凄惨な風景と空気に言葉はつまり、花火を上げよう!と言いにきた自分が日和ったのがわかった。諦めかけてた。するとそのカメラマンがふといった。ちょっと周りの風景撮ってくるんで、いいですか?と車を降りて、周辺の瓦礫を撮っていた。まだ車の中には人もいただろう。確認できていない場所もたくさんあっただろう。そこを映像で撮っていける神経がわからなかった。車の中でただ悩む。もう帰ろうか。。。明日にしようか。。。撮影から戻ってきたカメラマンが僕に言う。「いやー、やばいっすね。どうしますか?戻りますか?一旦今日はこれで終わりますか?」別に追い込むような口調ではなく、静かに、力強く、僕に問いかけた。この瞬間にどこかハッとした。何しに来たんだろ?これで終われないよね。誰にも会ってないし、誰にも話してない。何しに来たんだっけ。そこから車を釜石に戻し、仮説の役場に行って、怪訝そうな顔をする職員の皆様に向かって花火の話をしていった。この時、このカメラマンにケツを蹴ってもらえなかったら、そのまま明日にしてたら、僕は一生花火なんてあげなかったと思うし、今の自分は絶対に絶対になかったと思う。
この後も山ほどすっごい奇跡みたいな話は続くけど、3.11. と東京湾の花火が中止になってからの最初の1週間と忘れもしない「はじめの1回」は、僕の人生を大きく動かした、運命の日々だった気がする。
大好きなめんどくさいクライアント、小林、広瀬、山本
東北のリアルと最大のご縁を繋いでくれた、梢
自分でやれ、と言ってくれて、最後は会社で僕を守ってくれた偉い人、増田さん
僕の拙い言葉を直してくれた、井口さん
企画書を整えてくれてその後のPR全部やってくれた、小野
あの素敵な切り絵のマークを作ってくれた、榮さん
よくわかんないお金にもならない企画なのにイベント企画を考えてくれた、マツキング
花火に没頭する僕の通常業務をシレッと支えてくれた、友添、後藤
素敵な写真を撮ってくれた、大月
最後の最後までディフェンスしてくれた、卍
たくさんのスポンサーを繋げてくれた、啓介
一番最初に夢を見せてくれた当時コカコーラで今は野沢にいる、りょーたろ
一番の恩人でLIGHT UP NIPPONの鍵を開けたカメラマン、AKIくん
そして、多くのつながりと奇跡を見せてくれた狂った先輩、湯川さん
11年経って、全然違う場所で、全然違うコトしてるけど、あの時のあの時間は一生忘れないし、僕の最大の力になっています。そして、この後にもたくさんの人に出逢い、助けてもらいました。皆さんの名前をここには書いてはいけないけど、みんな、本当に本当にありがとう。
また明日、あの3.11.を思い出しながら、今の僕の場所から見る、次の10年を真剣に考えていきます。
花火大会開催までの軌跡を綴ったドキュメンタリー映画
LIGHT UP NIPPON
▷ <予告編>https://www.youtube.com/watch?v=gy2LzfgCQmk
▷ <30分Ver>https://www.youtube.com/watch?v=RGB2ZOqq0uk
チャリティソング
LIGHT UP NIPPON 〜空に花、大地に花〜
▷ https://www.youtube.com/watch?v=x6Nbv-oj9rw
* DAMのカラオケに入っています。