瞑想と情報とスピリチュアル
瞑想とは誰かが作った言葉です。
瞑想とは一部の状況を表しただけの言葉です。
ですので瞑想するといいよと言われても、瞑想?そんな風に大半の人々の心には響きません。
だからむしろ瞑想というよりも自分自身がいつも心地よく生きてください。心地よく過ごす、というのは世界中の人々に通じます。
そういうことなのです。
私が学生時代に読んだ、司馬遼太郎先生の「竜馬がゆく」、作中で坂本竜馬が禅について自分の考えを示すシーンがあります。
そのシーンで竜馬は、剣術の稽古の一環で禅の時間が設けられていることに対して、わざわざ時間を作って禅に取り組まなくても、歩きながら禅をすればよい、とそう言います。
当時若かった私は妙に納得した記憶があります。
つまりは禅をすることが目的になってしまっては本末転倒で、自分が成すべきことのために剣術の稽古や禅があるのだから、自身の目的が果たせるのであれば形式はさほど重要ではないということです。
この点に気づくことさえできれば、あらゆる局面において自身の選択が明瞭となります。
つまりは自分の目の前に見えている世界は、あくまでも自身の心が作り出した世界であり、その世界に自分自身が翻弄されてしまっては元も子もないということです。
無関係な情報の断捨離
自分と向き合うため、禅や瞑想が勧められることがよくあるように見受けられます。確かに自分自身の心と素直に向き合うのはとても大切なことです。
でもそれ以前に自分と無関係なことにNO!という勇気が必要ではないかと思うのです。
現代の情報化社会は沢山の情報過多を生みました。
そんな時代にすべての情報を個々人が処理しきることなど不可能です。
今後ますますIT産業は発展していき、情報の量は増え続け、その速度は加速していきます。
そんなことは私たちにはおおむね関係のないことです。
それらのことには、それらに直接的に興味関心があり、それらに直接関係のある人たちが取り組めばよいことだからです。
こういうと無責任な人だと思われるでしょうか、それでも私は言います、何故なら私にとっては私の愛する存在を守り、共に生きることこそがすべてだからです。
ですので私にはわからないのです、誰か私に地球の裏側で起こっている事柄にまで日々思いを馳せている人々の生きている意味を教えてくださいませんか?
時折私はそのような人々は本当に存在しているのだろうかとわからなくなるのです。
そもそも私たちには生まれながらにやることがあるのではないでしょうか?
それは自分の愛する存在を生涯をかけて守ることであり、身近な存在とともに自分自身を表現して生きることではないのでしょうか?
ひょっとしたら私は生まれながらにこのような思い違いをし続けてこれまで生きてきたのでしょうか。
そんな私は思うのです、自分と向き合うと同時に自分の周りの不要なモノ、つまりは自分の内外の不要な情報は断捨離するとよいと思うのです。
そして自分の中に最後に残ったものこそが、私たちにとってのかけがえのないものだと思うのです。
ネット上のみならず、実社会でもNOと言えない、Yesマンは沢山います。
もうそろそろ、そちらのYesマンゴッコを終わらせる時期に差し掛かっていると思うのですがいかがでしょうか?
スピリチュアルという思考の段階
まことしやかに巷でささやかれる言葉、スピリチュアル。
スピリチュアルという言葉は様々なシーンで使われる言葉ではありますが、私はこの言葉を意図的にあまり使用しないようにしています。
何故ならば私は、スピリチュアルという段階を思考の段階で終わっていて行動に行かない状態だと断定しているからです。つまりは私が日々更新しているこちらのnoteこそがそのよい例です。
私は日頃、さも偉そうにああでもないこうでもないと世界の真理のようなことをそれはもう物凄い速さで書いています。でもそれだけです、私の書いている内容などはすでに数千年前に偉い人たちが書いていることです。
お釈迦様はこの世界の真理についてのマニアだったので、最終的にその言葉は宗教となってしまいました。
さて、書くということは確かに行動と呼べるのかもしれません、それでも真の行動とは呼べないであろうと書けば書くほど思うのです。
ひょっとしたらそのことに気づくために私は書いているのかもしれません。
(それでも思いがけずたくさんの方に読んでいただけているのは、少しは書いている内容を面白がって下さっているからなのでしょうか、ありがとうございます)
ともあれ、やはり私たちの人生にとってはなによりも体験こそが宝です。
時には他の人がどのように考えているのかが大切な場合もあります、でも結局は自分がどうしたいのかという参考のためにそれらを欲しているのです。
ですのでもしこちらを読んでくださっている方の中に、スピリチュアル系の文章や動画に急に違和感を感じはじめたのであれば、それは本来の自分に近づいているのではないかと一度思い巡らせてみていただきたいです。
あくまでもこれまで見ていた文章や動画などが不毛であったわけではないのです、それらへの出会いの結果、自分自身でその境地に達したのだということです。
違和感は卒業の合図です、行動の兆しです、自分への道しるべです。
つまりは自分の内からのノックサインに応える時が近づいているのではないですか?
何故なら私たちはこれまでもう十分に考え思いめぐらせたからです。
だからこれからは、歩きながら禅をするように考えながら行動し続けてももう大丈夫なのだろうということです。
おわりに
時は折しも楽しいGWです、この機会に何か計画を立てて行動に移してみてはいかがでしょうか。
この素晴らしき10連休、腰を重くしてデスクの前であれやこれや考えるのは勿体ないです。実際に近所の心地よい場所や惹かれる場所へ出かけてみることをおすすめします。
それでは良いGWをお過ごしください。
いつも読んでくださって感謝します。
いつもたくさん考えられてえらい皆さんへ。
タイトルイラスト
ざがねさんよりお借りしています。
ありがとうございます。
プロフィール
私、那須ノの簡単な自己紹介となります。
惹かれたら是非ご覧ください。
いつも本当にありがとう。 これからも書くね。