その名は風来のシレン(史上最高のゲーム)
私がこれまで夢中になったゲームは二つ。
それは『かまいたちの夜』と『風来のシレン』だ。
いずれも当時のチュンソフト(現在のスパイク・チュンソフト)が開発したゲームタイトルである。
ここでは『かまいたちの夜』についての詳細は長くなるため控える。
1990年、『ドラゴンクエストIV 導かれし者たち』発売、その外伝的なタイトルとして、1993年、『トルネコの大冒険 不思議のダンジョン』発売。
当時の私は『トルネコの大冒険 不思議のダンジョン』に夢中になった。
そして1995年、チュンソフトより『不思議のダンジョンシリーズ』の後継タイトルとして歴史的なゲームがこの世界に誕生する、それが『不思議のダンジョン2 風来のシレン』である。
『風来のシレン』は、爆発的な大ヒットとなった『トルネコの大冒険 不思議のダンジョン』のシステムを踏襲しつつも、全く新たなゲームデザインで生み出されました。
私は学校では何も学ばなかったが、このゲームからは多くのことを学んだ。
それまでのどんなゲームよりも熱意をもってこのゲームをプレイし、以後私をこんなに夢中にさせるゲームタイトルはついに発売されませんでした。
不思議のダンジョンシリーズ(ローグライクゲーム)
『風来のシレン』のようなゲームシステムは、一般的にローグライクゲームと呼称されることが多く、日本でもそのように呼ばれることが多いようなのだが、『不思議のダンジョンシリーズ』が発売当初より大きな話題作となったこともあり、その名を冠して『不思議のダンジョンシリーズ』。とそのように国内では呼ばれることの方が多いかもしれません。
そのくらい国内の一部のゲーム好きにとっては王道のゲームジャンルとなっていきました。
この「不思議のダンジョンシリーズ」におけるゲームのシステムを極簡単に説明するなら、ゲーム内のAI(プログラム)との詰将棋。
相手はプログラムなので基本的には最適解を打ち続けてくる一方、こちらは操作ミスもするし、雑念だらけ間違いだらけの人間。この時点で人類に明るい未来はないのだが、これはまだひいき目に表現している、その実はもっと悲劇的なのだ。
何故なら人間側がコントロールできるのは自分自身のアバターであるゲームキャラのみであるのに対して、ゲーム側つまりAI側は複数の敵ユニットを同時に手足のように行動させることができるからだ。
更には階毎に生成されるランダムなマップ、散りばめられた罠、空腹の概念、食べ物などのアイテムの配置もマップと同様にランダム。つまるところ運の要素がその大部分を占め、プレイヤースキルの介入を許さない。
このようにゲームマスター側が圧倒的に有利であり、将棋の定石のように、こういう場合は次にこの一手というような手順も定めにくく、とにかくプレイヤー側に希望の光は見いだせない仕様。
だがこのゲームのファンはこのアンバランスさにこそ虜になっているのだ。
100回挑戦して、内99回は死を覚悟、それが風来のシレン。ただし、人類とていつもやられているわけではない。
人類がAI側に打ち勝つこと、これを我々は「打開」とそう呼んでいる。
人間が唯一有利なこと、それはその魂を躍動させることができるという点。そしてその魂の振動から思いもよらないインスピレーションがやってくる。その閃きこそを我々は欲しているのだ。
メタ的な死とは何を意味するのか
人間側の敗北は、その冒険のキャラのステータスとゲーム内アイテムの全ロストを意味するだけではない。
我々の現実のプレイした数時間も同時に失い、ただ喪失感だけが己の中に残るのみである。それなのに何故、我々は何度倒れようともその無謀なチャレンジをやめないのか。
それは『風来のシレン』の世界は、私たちが生きるこの現実世界のようにままならず、何一つ思い通りにならないからである。
つまり『風来のシレン』は人生そのもの。この現実では少々の失敗をしてもその命は健在である、ただゲーム内では失敗が死に直結する。
それはデジタルな表現としてそのように作られているから。
その点に我々は心惹かれてやまないのである。
きっと我々はもともとはこうしたデジタルな世界からきた存在なのだろうと思う。だからゲーム内の繰り返しの中の一定の心地よさに共感できるのだ。
もともとは永遠の命を持った存在であるからこそ、この現実を尊いと感じられると同時にゲーム内の繰り返しを懐かしむのである。
異世界での泥棒という名の芸術行為
難攻不落、前人未到のダンジョン。
ダンジョン内では、我々が生き残るため時にはタガの外れた飛躍した行為も必要となる。
ダンジョン内を深く潜り進めていくと、突如目の前にお店が現れることがある。そこは我々の終生のライバルが営むお店である。
ただプレイヤー側は基本的にお金をほとんど持っていないため、お店のアイテムを買うことは無理なのだ。では何故、そこにお店があるのか。
ある海賊王はかつてこう言いました。
「探せ!そこにすべてを置いてきた!!」
そういうことなのです。
これは生きるためなのだ、許せ。
でもその行為には気をつけねばなりません。何故なら、泥棒状態となった瞬間にその階層に限っては特別なシステムテーブル状態となり、それまで以上にほんの些細なミスが死につながるからです。
正直泥棒行為はそのダンジョンを普通にクリアするよりも数段高難易度な行為。ではなぜ我々はこうも日々泥棒にチャレンジするのでしょう?
それは我々が泥棒というその困難極まりない芸術行為にこそ自らの生を実感するからです。
ダンジョン内での泥棒という行為は、己の表現の一つであり、不思議のダンジョン内のメタ的なエリアに限ってのみでいえば英雄行為なのだ。
今日も今日とて風来のシレン
私は現在も時間があれば風来のシレンをプレイしている。
私がプレイしているのは「不思議のダンジョン 風来のシレン5plus フォーチュンタワーと運命のダイス」、オリジナル版は2010年に発売された12年も前のゲームである。
私は2020年にsteam版が発売されたことにより、風来のシレン5plusをプレイすることになった。
昨今の最新のゲーム、ELDEN RINGをはじめとする輝かしいタイトル、確かに素晴らしいゲームだと思う。ただ自分が心から惹かれるゲームかと問われれば、やはりそうではないのだ。
「1000回遊べるRPG」
この謳い文句は自分には当てはまらない。何故ならシリーズを通せば既に1000回などはとっくに過ぎ去ってしまっているからである。
「風来のシレン」のファンであり、長年プレイしているプレイヤーのことをシレンジャーといいます。そして世界中のシレンジャーの中で、私はまだまだひよっこの部類なのです。
私にとっての「風来のシレン」とは、おそらく今後も比類なきゲームタイトルとして凛然と輝き続ける永久不滅のゲームに違いないのです。
折しも時はGW、この時を大好きなゲームに費やしたとて誰が諫めるだろうか、むしろその時間こそが自分にとっての至福の時間なのですから。
プロフィール
私、那須ノの簡単な自己紹介となります。
惹かれたら是非ご覧ください。