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“年相応”にこだわる

 知り合いに面白い方がいらっしゃいます。彼は「こうありたい自分像」を少し高めに設定して、「物」に置き換えて努力をしています。たとえば服や時計などを買うとき、「この持ち物が似合う自分になる」ことを目標にするわけです。  そうして「この服には、どんな身のこなしがふさわしいかな」「この時計には、どんな振る舞いがふさわしいかな」「この靴には、どんな歩き方がふさわしいかな」というふうに考えるそうです。より高きを目指して気を上げる効果がありそうです。

桝野俊明「小さな悟り」p176 三笠書房

たまに間違える「こうありたい」

若づくりはしたい気持ちはある( *´艸`)
けれど無理しても似合わないと思う
年相応と思うと地味になる(;^ω^)
少し高めに設定して「似合う自分になる」「こうありたい」
背伸びしすぎて間違ったか?ということもある(;^ω^)
それは自分が思うだけで他人はいろんな見方をするだろう


時代とともに「年相応」も多様化

ところで「年相応」って?と思いませんか?
なんとなくわかるようで、同世代でも人によって違う
都心部、地方、島など地域でも違いが出てくる
そして、時代の変化でも違うと思う
例えば
30年前の50代と今の50代
30年前の80代と今の80代
おしゃれな人も増えたし、いいことだと思う
気持ちも元気に過ごそうと若者と交流することもいいと思う
街中では高齢な方でもスマホをいじっているけれど
僕の親は「スマホはわからんからいい」と未だにガラケー
どっちがいいとかいうことではない
どっちも選択の自由があればいいと思う

「迷惑」かけない程度に

「相応」とは、つり合いがとれていること
「相手に応じて」
「相手」とは、「人」だったり「自分」だったり
「場所」や「出来事」だったり
選択の自由があればいいとは思うけれど
周囲を困らせるような身勝手な自由はよくない
それを踏まえて


「自分が心地良い」のがいい

他人は自分が思うより見てないものですよね
よっぽど奇抜じゃない限り
そう思うと何でもチャレンジしてみてもいいかもしれない
そして「自分が心地良い」選択ができるようになればいい
そんな風にも思うのです
今は「こうでなければならない」とか「これが常識」とか
とらわれすぎずに「自分にあった選択」ができれば
「年相応」を狭い範囲に決めつけたり押し付けたりせずに
周囲はそれを尊重してくれる社会になればいい
そんなことを思うのです


最後までお読みいただきありがとうございます

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