小松亮太 ピアソラ《ブエノスアイレスのマリア》(2023年3月5日 埼玉・川口リリアホール)
3月5日は小松亮太さんの公演『ブエノスアイレスのにマリア』に行ってきました。アストル・ピアソラとオラシオ・フェレールが書いたオペリータ (小オペラ) で、ピアソラの数ある作品の中でも最高傑作のひとつです。この日の公演は端的に言って素晴らしいの一言でした。
年月の重み
ご存知の方も多いと思いますが、小松亮太さんは2013年にこの作品を上演しています。ピアソラの初演時の主役だったアメリータ・バルタールをマリア役に迎えたその公演は歴史的偉業で、ライブ録音は CD にもなっていますし、今ならサブスクでも聴けます。
それから早いもので10年。今回集結したメンバーは、楽器演奏者に関しては10年前と全く同じでした。歌手と語りは上記の公演では海外から招いた面々でしたが、実は他に Sayaca さん、KaZZma さん、片岡正二郎さんが参加した公演があり、歌手の二人はやはりその時からのメンバーです。最後に行われたのは2014年だったので、今回の一同集結は9年ぶりということになります。
今回の公演の冒頭で小松さんは「我々もお客さんも歳を取りました」と笑いを誘っていましたが、確かにその通りなのです。メンバー各人それぞれがそれぞれの形で音楽に向き合い、タンゴを咀嚼してきた年月。積み重ねた時間がしっかりとした重みを伴って実を結んだのがこの日の公演でした。
何度も感情を大きく揺さぶられ、時にこみ上げるものが
事前に SNS で出演者たちが「リハーサルが大変」とこぼしていたのを目の当たりにしてはいたものの、このメンバーなら完璧に仕上げてくるだろう、とは思っていました。そして、やはりその通りの内容でした。最初の一音で我々は暗く汚れたブエノスアイレスの場末に引きずり込まれます。あとは数奇なマリアの物語に身を任せるのみ。何度も感情を大きく揺さぶられ、時にこみ上げるものがありました。
主役のマリアを演じた Sayaca さんの歌唱は圧倒的な存在感と迫力でした。運命に翻弄され、死に至った後も影として彷徨うという悲しみを背負いながらも、芯の強さと気高さを感じさせるものでした。
夢見る雀のポルテーニョ、吟遊詩人の声等の役を演じた KaZZma さん。所々原曲の1オクターブ上で歌う箇所があったのは自らの声域を考慮してのことしょう。力強さと美しさが共存し、盤石の安定感を感じさせる歌唱でした。
今回のメンバーで唯一の初参加が小悪魔役の語り、アクセル・アラカキさん。普段はタンゴダンサーとして活躍するアクセルさんの起用は正直なところちょっと驚きましたが、とても魅力的な小悪魔を演じていました。これまで観たこの演目の中では最も若々しく覇気に満ちた小悪魔だったと思います。強いて言えば、小悪魔以外の台詞 (オリジナルでは複数人の声で演じられた部分) も一人で語ったのはやや違和感がありましたが。
演奏面で興味深かったのは、特殊奏法も駆使しながら差し挟まれるオカズフレーズ、合いの手フレーズが以前より増えていたこと。こういうところがとてもタンゴ的で、このメンバーならではだと感じました。
小松亮太さんのバンドネオンのフレーズが一部でオクターブ下げて演奏されたのも印象的でした。敢えて高揚を抑えるような音使いは、他とのバランスを考慮してのものだったのでしょうか。
個人的に大好きな「精神分析医たちのアリア」以降の展開は圧巻のパフォーマンスでした。「受胎告知のミロンガ」での盛り上がり、緊迫と悲しみの「タングス・デイ」で示されるマリアの輪廻。観ていて息が苦しくなるほどでした。
アンコールでは、特にバイオリンとビオラの3人の演奏する様子が印象的でした。互いに目を合わせて踊るように弾く姿は本当に楽しそうで、そして名残惜しそうで。今回の公演を象徴する美しいシーンだったと思います。
字幕についても触れなければなりません。翻訳は比嘉世津子さん。2013年の公演の際に作成された素晴らしい翻訳です。今回はステージの両サイドに置かれたディスプレイに表示されましたが、使用された字体も字の大きさも申し分なく、非常に見やすかったと思います。オラシオ・フェレールの難解な詩の世界を味わう上で大きな助けになりました。
これまでと、これからと
ご存知の方も多いと思いますが、元々『ブエノスアイレスのマリア』は2011年に上演される予定でした。
しかし、公演の8日前に東日本大震災が発生。公演は中止となります。下記は谷本仰さんのブログ。
それから2年後の2013年、様々な困難を乗り越えてマリアが再始動します。その間にはコントラバスの松永義孝さんが世を去るという悲しい出来事もありました。
6月29日のオペラシティでの公演が最大の山場となりますが、まず1月にはライブハウス江古田 Buddy にて、Sayaca さん、KaZZma さん、片岡正二郎さんが参加した、語りのみ日本語のバージョンが上演されます。
さらに6月24日にも同じ江古田 Buddy にて同じメンバーで。これらは公開リハーサル的な意味もあったのかもしれませんし、今思えばオペラシティ後の継続的な上演を見据えてのことだったのかもしれません。
そしてオペラシティの公演へ。
翌2014年、愛知県小牧市と東京の中野、板橋で上述のライブハウス公演と同メンバーでの公演がありました。私は板橋のみ観に行くことができました。
そしてここからはしばらく中断、9年を経て今回の公演に至った、というのがここまでの経緯になります。
ちなみに別途2021年には柴田奈穂さんによる公演も行われています。
小松さんと柴田さんの公演で、重なっているメンバーは KaZZma さん一人のみ。日本にはこれほどの大作を高いレベルで上演できるアーティストが2組もいる、ということは、実はものすごいことだと思います。
前回からだいぶ間の空いた小松さんによる『ブエノスアイレスのマリア』ですが、今後は継続的に上演したいという意志をアーティストの皆さんは持っているようで、聴く側の我々としてはこれは大いに歓迎したいことです。観たいと思っていながら観ることができていない人は数多くいるでしょうし、『ブエノスアイレスのマリア』という作品のことやタンゴのことを知らない人にももっと観てほしい。一方で以前から観続けている者としては、これから年月を重ねることでこの作品がどんな風に変わっていくのか、或いはどこが変わらないのかも見届けたい。というわけで、大いなる期待をもってまたマリアに会える日が来るのを待ちたいと思います。
公演概要
小松亮太 ピアソラ《ブエノスアイレスのマリア》
日時:2023年3月5日 15:00〜
場所:埼玉・川口総合文化センター リリア4階 音楽ホール
作:アストル・ピアソラ、オラシオ・フェレール
出演:
小松亮太(バンドネオン)
黒田亜樹(ピアノ)
田中伸司(コントラバス)
吉田有紀子(ビオラ)
松本卓以(チェロ)
井上信平(フルート)
鬼怒無月(ギター)
佐竹尚史、真崎佳代子(パーカッション)
アクセル・アラカキ(語り)
曲目:
第1場 アレバーレ
第2場 マリアのテーマ
第3場 狂ったストリートオルガンへのバラード
第4場 カリエーゴのミロンガ
第5場 フーガと神秘
第6場 ワルツになった詩
第7場 罪深きトッカータ
第8場 古代の盗賊たちのミゼレーレ
第9場 葬送に捧げるコントラミロンガ
第10場 夜明けのタンガータ
第11場 街路樹と煙突への手紙
第12場 精神分析医たちのアリア
第13場 小悪魔のロマンサ
第14場 アレグロ・タンガービレ
第15場 受胎告知のことやミロンガ
第16場 タングス・デイ (神のタンゴ)
アンコール 受胎告知のミロンガ
2023年3月15日のブログへの投稿の転載です。