僕はどうしても髪の色を変えたかった
「髪の色を変えたい」
今や希望でも切望でもなく、自宅でも手軽にできる事ですね。思い通りに綺麗に染まった時はそれだけで一日が楽しくなります。
「多様性」という言葉の元、小学生…それこそ未就学児ですら髪を染めていたりする昨今、中高生でも社会人でも、現在ならば当たり前の様に行われ、誰にも咎められることのないこの行為ですが、僕が若い頃には考えられませんでした。
僕は1972年(昭和47年)生まれの51歳で、幼少の頃は田舎ではまだまだ 男は坊主、女はおかっぱが美徳とされていた世代です。
お爺ちゃん子だった僕は1~2か月に1度、お爺ちゃんに床屋さんに連れていかれてはスポーツ刈りや坊主頭にされ、その度に「男前になった!」と言われるのが大好きな小学生でした。
そんな僕も中学生になると色気づいてくる…というより「BE-BOP-HIGHSCHOOL」という漫画が流行り始めた時代、それまでの校内暴力や“金八先生のカトウマサル”の様な不良ではなく「ファッションとしての不良」に染まっていきました。
“男子は坊主頭”という昭和全開な校則の中、側頭部や頭頂部の髪を少しずつハサミで切って“角刈り”に近付けていくという姑息な事をやっている、そんな中で「髪を茶色にしたい」と思うようになるのは自然な流れだった様に思います。
「脱色」という言葉も「ブリーチ」の存在も知らない当時、「オキシドールで茶色にできる」という噂がまことしやかに囁かれていました。
「消毒液で茶色くなる?」にわかには信じられませんでしたが、確かにオキシドールで茶色にしたと得意気に語る先輩の髪は黒くはありませんでした。どちらかと言うと茶色というよりも赤っぽい色でしたが。
「これならできる」と思い、町に一軒だけある薬局に行きましたが、明らかに脱色目的なのがバレバレなため売ってもらえません。地域住民全員が顔見知りという小さな町で、地域の大人が町の子供たちを見守り、時には引っ叩きながら教育するのが当たり前でしたから。
昭和らしい話ですが、そんな事よりも僕はどうしても髪を茶色にしたいのです。
そこで耳にしたのが「コーラで茶色になる」という噂。「コーラなんかで?」とは思いましたが「これなら誰にもバレない」という気持ちと、それを大きく超える「どうしても髪を茶色にしたい」という歪んだ情熱が僕を突き動かしました。
早速コーラを買ってきて風呂場で頭にかけ、揉み込み20分ほど放置してから、洗い流さずにそのままドライヤーで乾かす…噂に聞いた“脱色方法”を忠実に実行しました。今にも蟻がタカりそうな甘い匂いとベタベタする髪を鏡で見てみると、僅かながら赤っぽくなった気が…する?という程度。
「こんな筈はない」ともう一度挑戦しても結果はほぼ変わらず。「もう一度」と思っても、もうコーラはありません。もう一本買う程の経済的余裕はありませんし、何より、大好きなコーラを髪にかけるという神をも恐れぬ行為はもう出来ません。
仕方なく髪を洗い流し、ドライヤーで乾燥させると…ん、少し赤っぽくなってる?今度は気がするだけじゃなく「ぽくなってる?」
日光が当たると僅かながらに赤っぽくなってる気がしました。しかし、あと何回やれば誰が見ても色が変わったとなるのか?この費用対効果の薄さでは破産します。
これ以降、僕はコーラは“飲む専”になりました。今にしてみれば微笑ましくも間抜けな話ですが、当時は真剣だったのです。
その後、僕はROCKミュージシャンを目指すようになり、染髪料の知識も増え、髪をいろんな色に染めました。高校生の時はスプレータイプの毛染めでその日だけ金髪にしたり、前髪だけピンクにした時期もありますし、高校を卒業する頃には「髪を染める=不良」という古い観念は徐々に薄れていき、一般的になっていきました。
運良くROCKバンド「SOPHIA」としてデビューし、プロミュージシャンになってからは、腰まで伸ばした髪の色を保つために四苦八苦したり、時には髪が溶けるギリギリまでブリーチして青色のシャンプーで洗って真っ白にしたり、鮮やかな赤色をキープするために4か月間、3日に1度は染め直したり…なんて無茶な事もしてきました。
40歳を過ぎてから9年ほど音楽から離れて会社勤めをしていたので髪を黒く染めていましたし、その頃からは白髪染めのお世話にもなっています。気付けば今では髪の7割が白髪。脱色しなくてもCIELOの白髪染めだけで手軽に「ピンクブラウン」になるのでラクをしています。
髪を染める…生きる上で必ずしなければならない事ではありませんが、僕にとっては「自分の好きな自分になるために絶対に必要なこと」なのです。
だって中学生のときに大好きなコーラを頭にかけるくらい「どうしてもやりたかった事」なのですから。
追記
#髪を染めた日 コンテスト受賞をきっかけにhoyuさんへの逆インタビューをさせて頂きました!
▼こちらから