ジョーカーになり切れなかったアーサーたち
【ネタバレあり】
和製ジョーカー
橋口亮輔監督の「恋人たち」を見た。
この映画も、某映画評論家が「ジョーカーと映画の骨格が似ている」と言っていたからだ。
骨格というのは「社会的弱者が社会の不条理に追い詰められていく」という構図のこと。
その評論家は同類の作品として大森立嗣監督の「ぼっちゃん」も挙げていたが、私は「恋人たち」のほうが遥かにジョーカーと本質を共有していると思った。
橋口監督との出会い
橋口監督というと、私が20歳前後の若かりし頃に見た「二十才の微熱」と「渚のシンドバッド」が強烈に印象に残っている。
ゲイであるというセクシャル・アイデンティティを隠さずに映画を撮っている人がいることに、単純に驚いていた、そんな世間知らずの青臭い頃の私だった。
上記二作には同性愛の描写があるが、私はそんなに気にならなかった。なぜなら、単純に総合芸術としての映画として面白いからだ。演者たちが期待感を持たせる演技を見せてくれていたからだ。
さらにその頃、これらの作品を見ながら
「この監督は、10年後、20年後にもまだ監督を続けているとしたら、一体どういうものを撮っているだろうか」
と思った記憶がある。
これは裏返して言えば
「20年後にはきっとセクシャル・マイノリティーを映画の中で表現することは、もう決して特別なことではなくなっているはずだ。
特別なことでなくなっている以上、橋口監督は一体何を撮るべきなのか」
という思いでもあったのだ。
20年経って
果たして、二十才の微熱から20年以上が過ぎた。
「ぐるりのこと。」を見て、お! 何かをこの監督は確立しようとしている!
ととても嬉しくなった。性格俳優という言葉があるように、橋口映画は、いわば性格映画ともいうべき、映画全体が全体性を保持したままで、人間そのものを映し出している、と感じたのだ。
そして本作。もはや何も言うまい。きちんと「人間」がスクリーンの中にいるではないか。
彼らは「五輪なんかどうでもいい、”いいほうの”おバカな人たち」である。
言い換えればジョーカーになり切れなかった人たちである。アーサー・フレックには誰も手を差し伸べる人がおらず、そこへもって、たまたま銃を手にしてしまったことで、暗黒面へ転落してしまった。
本作の人物たちはどうか。妻を通り魔に殺された篠塚アツシは、ひょっとしたらアーサーと同じような運命をたどっていたかもしれない。
誰にも関心を持たれず、世の中に恨みを持っていることすら誰にも知られなかったら、そしてそこへたまたま何か銃でもナイフでも、何か武器を持っていて、決定的な何かがトリガーになっていたら、篠塚アツシもジョーカーになっていたかもしれない。
しかし、彼はならなかった。十分な怒りも恨みも、動機もあったのにならなかった。なぜか。
彼の「恨み」をいじってくれた人がいたからである。
仕事仲間の黒田だ。私はこの黒田の朴訥な人柄と、役者の演技に泣かされた。
「この世の中には、いい馬鹿と、悪い馬鹿と、タチの悪い馬鹿がいる。君はいい馬鹿だ」「通り魔の犯人が憎くても殺したら駄目だ。そしたら君と話せなくなるから。俺はもっと君と話したい」。
何でもない黒田の言葉だが、こんなに力を持った言葉を聞いたことがない。すごい台詞である。しかも、このシーンでは黒田はなぜか腕をケガしているが、その理由はここでは明かされない。
ラストでこのまさかの理由が明かされ、私は思わず笑ってしまったが、黒田自身も結局「人の好い馬鹿」であったのだ。このあたりの脚本に、監督の恐ろしい才能を感じる。
ジョーカーの中でも言及されていた「人生はクローズアップで見ると悲劇だが、ロングショットで見ると喜劇である」というチャップリンの言葉が、黒田の腕のケガに象徴されていて、本当によく実感できる。
漫才=相方文化のある日本と、ピン芸=スタンダップの欧米
とあるユーチューバーがジョーカーの解説動画の中で
「アーサーはコメディアン志望だったが、もしアーサーに相方がいて、その相方が彼の日常をいじって笑いにしてくれていたら、彼はジョーカーになっていなかったのではないか」と言っていたが、なるほど一理あるかもしれないと膝を打った。
苦しんでいる相手をむやみにいじるかどうかは別として、相手の存在を無視せず、どんな形でも関わり続ける、
「自分は誰かに意識されているんだ」と感じさせることが、人間の相互関係においてきわめて大事、という当たり前の力を感じた力作であった。