人生で起こる不条理に意味はあるのか-『変身』から学べること469
IBDP日本語Aのレッスンでは、単に文学分析の方法を身につけて試験で点を取ることだけではなく、10代の生徒たちが自分の人生と向き合ったり、物事を深く考える機会にもなっていると感じます。そのため、私自身も単に試験対策としての授業をするという感覚だけではなく、「生きる」とはどういう意味があるのかについて共に考えるというとても大切な時間になっていると思っています。
現代の効率やスピード重視の社会の中で、じっくり考えることの楽しさを知った生徒たちは、文学分析の時間を充実した時間だと感じるようになり、授業のディスカッションでも積極的に自分の考えを述べるようになります。これは私にとっても非常に充実した時間となっています。
授業では文学分析の中で作品の主題や修辞法などを確認するだけでなく、その作品が書かれた時代背景や作者のアイデンティティなども学んでいきます。その中で生徒たちが、点在している情報をある一定の集合体として捉えることができた時、考えることの楽しさを学んでいると感じます。
私自身もこれまで歴史の教員として働いてきましたが、改めて文学を学ぶ魅力があると理解し、授業で扱ったテーマなどを記録しておきたいと思って記事を書いています。
自分の備忘録として書いていますが、この記事がSSSTで日本語Aを学んでいる生徒の方の役に立てば何よりです。今回はフランツ・カフカ『変身』について、学んだことや感じたことをまとめています。
作者の人生観が表れている
約100年前に書かれた作品を理解するのは難しい時があります。しかし、時間や場所を超えて私たちに作者からメッセージとして受け取るものがあります。それは「生きる」ことの意味だったり、悩みや葛藤との向き合う強さだったりします。そういった意味で、文学に触れることは自分の人生の視野を広げることにつながると感じています。
今回、2022年に角川文庫から出版された『変身』を読みました。この著書は作品の解説も含まれるので、生徒たちにとっても内容理解を深めるのに役立ちます。作品自体を分析するだけでなく、著者であるフランツ・カフカが歩んだ人生で感じたこと(20世紀初頭のユダヤ人の国際的なみられ方、この作品を書いていた時の心境など)を理解することで、読み方や味わい方が深くなり、『変身』のテーマを深く学ぶことができます。
突然起こる「不条理な」出来事の意味
この作品を読んで、私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。最初に読んだ時は、正直に空想の世界を歩んでいるような感覚で何を読み取れば良いのかがよく分かりませんでした。しかし、彼が生きた時代のユダヤ人としての生き方、生物学的な発想から優生学が生まれ、やがてそれがユダヤ人が劣勢人種と誤解されるような歴史の中で生きた彼の心境を考えると、この作品に描かれている「ある日突然やってくる不条理」「不条理には意味があるのか」ということについて深く考えさせられる部分があるということが理解できました。
私自身も正直、「虫になってしまったことの意味」や「虫になった試練を乗り越え、元の姿に戻るための行程」が入ってくると期待してしまっていたのです。しかし、人生に起こる不条理には本当に意味があるのか、むしろそこに意味があると自分なりに見出すことで生きる希望を保つ人間の自意識的なものがあるのではないかと考えることができました。
家族の存在
この作品の主人公とされる人物はグレゴール・ザムザですが、それと同等に作品の中で大きな役割を持っているのは彼の「家族」です。ある日、家族の一人が姿を変えて虫になった時、家族全員が不幸のどん底に突き落とされたような苦しい状況になっていきます。姿が変わっても家族であると考える人もいれば、見た目のおぞましさからかつての家族ではない扱いをする人も出てきます。これは非現実的な出来事ですが、実際に私たちの社会においても突然訪れる不幸や負担を背負うことで感じる苦しみを表していると考えることができます。
弱い人間とされてきた著者のカフカですが、そんな繊細な心を持っていたからこそ、人間の残虐性やエゴイズムを表現できたのではないかと解説されていました。
この作品を通じて、起こる出来事や何かの問題に必ず答えがあるわけではないということが学べました。私たちはそこに意味を付け加えて、生きる大義みたいなものを見つけようとする時があります。それ自体は無駄なことでもなく、生きる希望を見つけるための大切な思考なのですが、世の中で起こる突然の不条理に意味がないという現実世界で起こる残酷さをこの作品は提示していることを知りました。このように自分が無意識だった部分に目向けることができたので、深い学びになったと感じています。
エッセイは思考・表現を試すのに良い場所
日本の教育現場にいる時から、自分の考えを文章で表現しそれが基準に合わせて評価される活動が生徒たちの学力を高めると思ってきました。社会科の探究的な学びを知る中でIBのカリキュラムに出会い、今は文学分析のエッセイをサポートする立場になっています。
エッセイを書くためにはいろんなスキルが求められます。まずは問題文の意図を理解しているか、その後自分の考えを出せるか、そしてそれにまとまりや問題文との関連があるか、最終的には文章で自分の考えを性格に表現できるかというステップまで進めなければいけません。
近年ではAIが文章作成能力を付けてきており、もはや文章を書くのも人間の仕事ではなくなりつつあるかもしれません。もし、文章を書くこと自体が目的なのであれば、AIを使った文章作成は私たちの仕事をより高度な思考する部分に集中できるような補助的な役割を満たしてくれると思います。しかし、成長期において「考える力」を身に付ける過程においては、自分の考えを持つことができそれを相手に伝わる表現を行うというトレーニングはまだまだ必要なのではないかと考えています。
効率的なことや楽をすることは全体に活動において大切な部分でもあります。しかし、アイデアを時間をかけて熟成させたり、考えること自体を楽しめるなど、人間の高度な思考力が機能する状態を維持ことは人々にとっての生きがいにもつながるのではないかと思っています。
そのため、授業では文章作成はAIができる時代になったけれど、その内容が合っているのかどうかを見極める力、自分の考えを持ったり表現できる力は今のところ大切なスキルだと伝えながら、これからも日々生徒たちと分析を楽しんでいきたいと思います。考えるって面白いです。