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「引きこもり」を生み出す環境に焦点を当てる - 『小説8050』からの学び[432]

 林真理子さんの『小説8050』を読み終えました。日本の「引きこもり」は大きな社会問題となっており、現在の引きこもりは146万人(2023.3)約30万人の小中学生が不登校(2023.10)になっているそうです。近年は原因も複雑になっており、女性の引きこもりの数が増えていたり、学校ではなく家庭環境が原因で不登校になってしまうケースもあるようです。

 『小説8050』は非常にリアルな社会を描いており、IBDP日本語Aでのディスカッションの材料として使えそうなテーマして記録おきたいと思います。記事の中には、作品の内容が分かるようになっているところもありますのでご注意ください。作品についてまとめる際に参考にしたホームページや動画は以下になります。

大人は自分の「弱さ」と向き合えているか

 この作品の最も大きなテーマは、三浦友和さんが解説の中で述べた「自分の弱さ」から目を背けないことだと思いました。自分と向き合うということは、自分のできないところ、弱いところに目を向けることになるので、辛い気持ちになります。しかし、それを受け入れることで本当に大切なことに気づくことができるということを、正樹の変化から読み取ることができます。実際に正樹が自分の弱さを受け入れることで、いろんな物事の変化が加速しています。

 自分の弱さを受け入れられない場合、何か問題が起きた時に家族やそれに関係する他人のせいにしてしまいます。実際に妻の節子が苦しんでいる時も、正樹は妻を責めることしかできず、節子はもうこれ以上は耐えられないという気持ちに追い込まれてしまいます。ここで、一つでも相手に共感できたりお互い弱さを相互に認め合うことができれば、節子の苦しみを感じた後の物語の展開は大きく変化していたと言えるのではないでしょうか。

 弱みを親が出せることで、家庭は子どもも何か困ったことがあった時に話しやすい環境になります。しかし、子どもが家庭で自らの不安や悩みを打ち明けられずに親の期待を一心に背負い、学校でも過度な競争にさらされてストレスを溜め込む環境であれば、子どもは必ず押し潰されてしまいます。

 大人が自分の弱さと向き合い、子どもが自分の弱さと向き合う助けができれば、辛いことがあっても対処することが可能になると考えられます。作品の終盤では、正樹が記者会見の中で「子どもと一緒に戦う」ことが大切だと述べています。それは正樹が7年間の引きこもり生活から学んだことと言えます。

子どもの気持ちを無視した子育て

 7年間の引きこもりを経験した翔太が、自分の気持ちを素直に表現できるようになるのは物語の終盤からです。彼が小学生や中学生の頃は、精神的に追い詰められた母親に優しい言葉をかけますが、それ以外は自分の気持ちを表現するシーンは見られません。親が子どもを将来は医者にすると決め、中学受験も親の誘導で何とか成功しますが、「良い学校」とされる場所でいじめに遭ってしまいます。「偏差値の高い学校、一般的な人が考える『良い学校』に入ることが、本当にその子の将来のためになるのか」という考えに一石を投じる部分だと思います。

 作品の中では、親の期待に応えようとする中学生時代の翔太の心情が描かれており、親に子育ての緊張感が強く、かつ思考の柔軟性がなければ、どんどん追い込まれていってしまいます。学校で何か問題があったとき、起こった問題そのものに苦しむというよりも、それを相談できる相手がいないことに苦しむことが多いと思います。もちろん、相談する相手は内容によって異なるかもしれませんが、少なくとも「親は自分の味方をしてくれている」という安心感が何よりも必要な基盤です。

 子どものためを思っているうちに、いつの間にか中心にいるはずの子どもが置き去りにされているというのはよくあることかもしれません。そこで、子どもの声に耳を傾け、子どもは今生きている世界をどんな風に見ているのか、彼らの目線に立って考えることを忘れてはいけないと思いました。そういった考えを阻むのは、世間体や周りからどう思われるのかに気を取られてしまうことがあると考えられます。

 近年は、「マルトリートメント」という言葉を耳にすることが多くなりました。作中に「心を殺すことも殺人」という表現が出てきて、過度な教育によって子どもを追い詰めたり、ふざけてといってトラウマになるような精神的な傷(身体的なものはもちろんのこと)を追わせることがあってはならないと私たちは理解する必要があります。

問題は小さいうちに早めに対処する

 今回この作品を読んで、翔太が引きこもり生活にどっぷり浸かってしまうまでに、途中で打てた策がいくつかあるように感じました。
 最初はいじめが起こった頃の翔太の家庭での様子が変化した時だと思います。しかし、これは気づくことができない保護者も多いかもしれません。次に、翔太がやがて学校に行きたくないと言い出したタイミングや、学校を休んでいる時の家の過ごし方など、問題が長期化する前に打てる機会がいくつもあったと思います。その時に、家族で何が問題なのかを考えるためにゆっくり話を聞く機会を持つことで、7年間の引きこもりの途中で終止符を打つことができたかもしれません。
 長くなればなるほど、それに区切りをつけることが難しくなり、子ども自身も変化する機会を失っていきます。

 何事も早めに対処することで解決も後から取り組むよりは簡単に済みます。そのことを肝に銘じておかなければなりません。

信念のある人とない人の対比

 また、作品の中では信念の有無で人の行動や発言が大きく異なることが読み取れます。問題を表沙汰にしたくない学校、裁判の尋問の中で「わからない」を貫くいじめた側の生徒(金井利久斗、佐藤輝一)とは対照的に、自分と向き合って裁判で胸を張って発言する大澤翔太や、過去のいじめに見て見ぬふりをしてしまった田村梨里花、そして今回の重要人物である高井守弁護士の姿が印象的でした。また、その間にいる人物の堀内真司や寺本航の心の動きや変化などにも注目しました。主にこの物語の視点である正樹は変化することで信念を持てる人間になったと言えます。

 いじめについて、傍観者も同罪であるということがこの作品でも描かれています。もしあの時止めることができたら、次自分をターゲットにされるのが怖い、そういった葛藤を抱えることがあると思いますが、学校という狭い世界しか知らないとそういった不安はより強くなると思います。学校の外にも友達がいたり、いろんな大人との関わりがあれば、生徒たちの考え方も変わるかもしれません。また、過去の過ちを認めそれと向き合って生きていくのか、それを誤魔化して生きていくのか、どちらを選んだ人間なのかで物語での描かれ方も異なっているように思います。

過度な競争がいじめを生む?

 いじめというのはどこにでも起こりうることで、偏差値の高い学校だからそういうことは少ない、学力に不安の多い学校にはいじめがあるという思い込みは非常に危険です。
 思春期の子どもに起こる不安は学力には関係なく起こるもので、むしろ競争の激しい教育を受けてきた子たちの方がストレスを溜め込んでいる可能性が高く、その吐け口としていじめを起こすと考えることもできます。もちろん、頑張るべき時は辛いことにも耐える力は必要かもしれませんが、少なくともそれを勉強で幼い頃から強要することは良くないと断言できます。

人の心の痛みがわかる人間に

 裁判の中で、高井弁護士が「加害者はやったことを忘れる『バカ』で、被害者はずっとそのことを考え問い直していく『賢者』」といっています。人の心の痛みが分かるかどうかはとても重要なことだと私も感じました。

 私はこの小説を読んで、「引きこもり」が起こる背景にはいろんな要素が絡まっていることがわかりました。翔太が引きこもりになるまでにもいくつかポイントがあり、その後も引きこもりが長期化するまでにも大人が介入できるタイミングもいくつかあったはずです。しかし、その時周りの大人は子どもの様子を観察したり変化に気づく余裕がなかったり、自分の弱さと向き合えていないから現実から目を逸らして、翔太が学校に行きたくなくなるところの根本にある問題に気づくことができませんでした。
 これは子育てに限ったことではなく、日常の中で何か問題だと思うことが起こったのであれば、それについてよく考え家族など関係する人たちと対話する時間を設け、根本的な問題について見つめなければならないということを私たちは学ぶことができます。問題に蓋をして目を背けると、それは無くなるのではなく、時間の経過とともに大きく膨らんでしまって、もはや解決できないぐらい大きく複雑な問題になっていることがあります。そうならないためにも、日々の生活を大切にして問題があればその都度対処していくことが求められると思いました。

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