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怖いまま、流されてみるー鎌倉の波の音

11月いっぱいで色んな仕事を手放した。とても怖かった。

私はフリーランスだ。
フリーの仕事だけでは食っていけない。そう思っていた私は、安定した収入を得るために低単価でも定期的に収入が入るような仕事をいくつか掛け持ちしていた。そうしないと生きていけないと決めつけていた。
低所得なフリーランスを脱したいけど、お金を稼げる自信がない。だから、そういう「安定した」仕事を入れて、暇を無くしていた。必死だった。

いつまでこの暮らしを続けるの?
自由な時間がないくらい必死に働いて、それなのに大して稼げないような暮らしを、あと何年続けるつもりなの?

10月、11月にかけて、徐々に仕事を手放していった。
これからも付き合っていきたい仕事相手かどうか。そんな基準で断捨離したから、不安は尽きなかった。

収入が途絶えたら?今月と来月はどうにかなりそうだけど、その先は?家賃は?払えなかったらどうするの?

引越してまだ2週間程度ではあるが。
振り返ってみると、それらを手放したおかげで「在宅で働く」という理想が叶っていることに気付いた。 無論、フリーなので不安定ではあるんだけど、確かに現時点で理想が叶っている。それは事実だ。本当に有難いことだなと思う。

鎌倉に住む決心を固められたのも、「やらなきゃいけない」と思っていた仕事を手放せたからという面が大きい。

今日は仕事がひと段落してから、由比ヶ浜まで散歩しようと思いついた。

私はもともと北鎌倉に惚れこんで鎌倉移住を決めたので、鎌倉は海より山というイメージが強い。だから、鎌倉の海に行くのは、実は初めてだった。

Googleマップでみると、家から由比ヶ浜までは徒歩20分程度。近い。

スッピンのまま、身軽な格好で外に出た。空気はひんやりと冷たい。
木々が赤く色づいている。小学生が集団で下校している。
景色を眺めながら、急がずに自分のペースで歩く。
ほとんど一本道で、迷わずに行けた。

12月の15時過ぎ。
太陽はすでに夕陽に変わろうとしていて、真っ直ぐ刺すような強い光で由比ヶ浜を照らしていた。

この時期なのに、それなりに人がいた。
平日のこの時間に何人ものサーファーが波に乗っているのは、さすが神奈川という印象だ。

ゆっくりと波打ち際まで進む。
一歩一歩踏みしめるたびに、砂の中に沈み込み、足を取られて少し歩きづらい。黒いスニーカーにぱらぱらと白い砂がかかる。

管理が行き届いているのか、意外とゴミが少ない。
過去の経験から関東の海は汚れていると決めつけていたけれど、由比ヶ浜はそんなことないみたいだ。

しゃがみ込み、ぼーっと海を眺める。

今年の夏は奄美や喜界島といった離島に旅をして、たくさん海に行った。
ひとくちに「海」と言っても、どれも違った魅力がある。

離島に比べると、由比ヶ浜の海は透明度が低くて濁っている。砂浜に生き物がほとんどいなくて、なんとなく「人のため」の海という印象を受ける。
だけど、波打ち際を歩いたり、犬と遊んだり、寝転んだり、たくさんの人が想い想いに過ごすこの海も美しい。波打ち際で一人、ぼーっと座り込むようなアラサー女も受け入れてくれる居心地の良さは、人と共にある都会の海ならではかもしれない。

由比ヶ浜の砂はとても細かくてさらさらしていた。
触ってみて、なんとなく優しい印象を受ける。
砂が優しいって何。そう自分でツッコミを入れつつ、砂を掬い上げる。さらさらと音もなく零れ落ちていく砂は冷たくて、柔らかい。指の間をすり抜けていく感覚が心地良い。
女性的な砂だなと思う。柔肌のように、いつまでも触っていたくなる。

人の足跡と、カラスの足跡

波が打ち寄せて、広がって、引いていく。
波が立ち上がる瞬間、西陽を受けて、波の中が見えるのが面白かった。少し濁った海水が壁のように立ち上がり、次の瞬間には崩れ落ちていく。
少しずつ、海水が浜を侵食していく。私がしゃがみ込んでいるこの場所も、いずれは波に呑み込まれてしまう。もし私がこのままここに居座り続けたら、私は海の底に沈んでしまうのかもしれない。

波音が、ゴーッと深く響いていた。
宇宙の音みたいだと思った。宇宙に音はないけれど。
私がもしSF映画の監督だったら、ゴーッと鼓膜を揺らすこの音をオープニングのSEとして使うだろう。どんなシーンかはわからないが。

何年も昔、三重の七里御浜というところに行ったことがある。
そこは小石でできた海岸で、波が打ち寄せられるたびに、地の底から聞こえるような音が響いていた。
この世の音とは思えない。底知れなさ。引き摺り込まれてしまいそうな怖さ。地獄の音ってこんな感じなのかなと思ったのを覚えている。
近くに鬼ヶ城という景勝地があったり、日本神話と深く関わりがある土地というイメージがそう思わせたのかもしれない。

由比ヶ浜の波の音は怖くはなかった。
ただ、ずっと聞いていると、宇宙の闇に浮かぶ小惑星の群れみたいなイメージが喚起された。一見すると不規則に動いているように見えて、その実、引力やら何やら、見えない力に動かされている複数の大きな塊。

私も、自分が思うままに任せて、ある意味では「流されて」生きてみても良いのかもしれない。自然の摂理で波が行き来を繰り返すように、私も自分のペースで望む方向に自然と進んでいけばいい。そうすれば、何か大きなものが導いてくれて、今は見えない景色が見えるようになるかもしれない。

平日の昼間。ぼーっと海を眺め、とりとめもない妄想に耽ける。
なんて贅沢な時間だろう。
いろんなものを手放すことができたからこそ、ほんのひと月前ですら想像もしていなかった暮らしが、確かに今、現実として目の前にある。全てがそうとは言わないけれど、怖さを乗り越えた先に、理想を叶える方法が転がっているのかもしれない。

夕陽が眩しい。少しずつ、波の先が私の足元に近付いてくる。
20分ほどしゃがみ込んでいると、足が痺れた。
血が通わなくなったふくらはぎがじんじん、主張を始める。贅沢な時間はたったの20分で強制終了である。

シートを敷いて寝転んでいる人たちがうらやましい。私も100均にシートを買いに行こう。
そう思って立ち上がったのに、家に帰り着いて、シートを買ってくるのを忘れたことに気が付いた。まあ、人生そんなもんか。

いつでも、毎日でも、海に通える距離なのだ。次に行くときに、シートを買ってから向かえばいい。思い切って時間を作って、朝から過ごしても良いかもしれない。何度買い忘れたって大丈夫。手放すことで手に入れた私の鎌倉暮らしは、まだ始まったばかりなのだから。


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