たたらの里を訪ねて
昨年少し調べ歩いたところをこの週末に家内ともう一度”復習”してきたので,再掲します。元記事はここです→ https://yoshinobus.livedoor.blog/archives/6463216.html
たたら。
漢字では,鑪と書くそうです。
中国地方,特に島根県には,
たたらの遺跡や博物館などがたくさんあります。
梅雨の晴れ間を見計らっては,せっせと行ってみてきました。
少しまとめてみました。良ければ読んでみて下さい。
1.なぜこの地方でたたらが盛んになったのだろうか?
要素としては,砂鉄の埋蔵量と燃料としての森林資源,
製品の搬出ルートの確保の容易さだろうと思います。
「鉄山秘書」に「一に粉鉄(砂鉄),二に木山,三に元釜土」
と記載があるそうですが,島根県付近には良質の真砂砂鉄が
多く産出され,森林資源にも恵まれています。
古来,たたらの立地条件は「粉鉄七里に、炭三里」
と言われたそうです(砂鉄は七里より遠方からは運ぶな,
木炭は嵩張るので三里以内で調達せよ,という戒め)。
又,日本海に面した港を積出港にできました。
2.たたら製鉄の特徴のいくつか
真砂砂鉄などを原料とし,燃料は木炭です。
現代風にいえば所謂,低温還元法です。
色々な時代や製法の僅かな違い,村下の技術力などによって,
製品と原料並びに燃料の比率はかなり
ばらつきがある様ですが,
およそ0.5トンの鋼と1.5トンの銑鉄を得るのに,
砂鉄約15トン,木炭約15トンが必要だったようです。
1回の製鉄手順を「一代(ひとよ)」といい,
三昼夜,およそ70時間。
和鋼博物館によれば,
「たたら製鉄が盛んであった江戸時代後期は,
年間約60回の操業が行われ,
かつ,たたら炭に適した木の樹齢は30年以上
とされますから,1ヶ所でのたたら操業を継続する
には約1,800haの森林面積を
確保する必要がありました。(中略)
広大な山林を必要とし,たたら経営者はまさしく
山林王でありました」
始まりは,古墳時代後期(6世紀前半~646年を
古墳時代後期と言うらしいです)と推定されているそうです。
長い長いたたらの歴史の中でも,最も盛んだったのは,
18世紀並びに19世紀でしょうか。
ところが,明治新政府による西洋の近代製鉄法
(日本の近代製鉄は明治30年(1896年)官営八幡製鉄所創設
から始まるとされています)によって駆逐されました。
製法は,村下(むらげ)と呼ばれる技師長からの口伝で,
科学的な分析・改良が殆ど行われなかった為,
効率が悪いまま継続されました。
近代製鉄法の導入によって,およそ1300年間も続いた製鉄法が衰退し,
わずか100年で村下は存在しなくなってしまいました。
何事にも栄枯盛衰はあるとは言うものの,工業技術の場合は
その切り替わりは余りにも明瞭且つ鮮やかで,
心情的或いは情緒的には劇的で残酷な幕引きだったと感じますね。
3.信仰との寄り添い方
八俣の大蛇(やまたのおろち)伝説と,
このたたらの関係はよく知られていますね。
山のあちこちでたたらの炎が夜通し見えるのを,
山をぐるぐるっと巻いた大きな大きな蛇が,
口から火を吹いている様子に例えた,と言われていますね。
これ以外でも,金屋子神(かなやごのかみ)信仰は,
たたらと切っても切れない関係の様で,
たたらのあるところには金屋子神社と桂の木があります。
4.財を成した有名な旧家
絲原(いとはら)家,田部(たなべ)家,櫻井家の御三家が有名だそうです。
それぞれに由緒のある建物などが残っています。
絲原家→絲原記念館
田部家→雲南市吉田町吉田の土蔵群(雲南市吉田町吉田2557付近)
菅谷高殿(雲南市吉田町吉田1214)
櫻井家→可部屋集成館(奥出雲町上阿井1655)
5.その他のご紹介
①鉄の歴史博物館(雲南市吉田町吉田2533)
②和鋼博物館(安来市安来町1058)
③菅谷高殿(雲南市吉田町吉田1214)
④その他
たたら角炉伝承館(奥出雲町 仁多町上阿井1325-6)
広島県立歴史民俗資料館(三次市小田幸町122)
菅谷たたら山内生活伝承館
鉄の未来科学館
⑤付近の名所旧跡など
出雲大社
奥出雲多根自然博物館
砂の器記念碑
足立美術館
鬼の舌震(したぶるい)
三瓶山
三次の鵜飼
神楽門前湯治村
帝釈峡(神石郡神石高原町)
帝釈峡まほろばの里時悠館(庄原市東城町帝釈未渡1909)
雄橋(おんばし)(庄原市東城町帝釈未渡1930)
※下記からの再掲
https://yoshinobus.livedoor.blog/archives/6463216.html
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