クリスマスに親バレして、自分の人生を歩みはじめた風呂屋の話①
とある年の12月25日、わたしは“わたしの人生”を歩みはじめました。そのきっかけは、この業界に飛び込んできて初めて迎えたクリスマスに盛大に親バレしたからです。
自身の家庭環境を客観的に評価するならば。少々変わった家族構成ではあるけれど、特段悪い家庭環境ではなかったように思います。見る人が見ればきっと“恵まれた良い家庭”だとも捉えられるでしょう。実際に昔から家族仲は良い方だと自負しているし、今も仲は良好で。やりたかったことや欲しいものも、ごく一般的に子どもが求めるような現実的なものであれば、ほぼ言うがままに叶えて与えてもらった記憶があります。
わたしへの愛があるか、ないか。そう問われれば間違いなく「ある」と答えられる。そんな家庭。
だけれど、201X年のある日。
あと数ヶ月で20歳になろうとしていた当時のわたしは、自らが課した呪いで息苦しさを感じていました。
この当時のわたしは医師を志していました。何故医師を志していたのか。
それは「そうした方が周りが喜ぶような気がしたから」
誰かの力になれる瞬間は嬉しくて、幸せで、温かな気持ちになれた。人を救う職に1ミリも興味がないわけでもない。むしろ誰かをサポートさせてもらうようなことが、隣でそっと寄り添うようなことが、昔からとても好きだった。
それでも、心から医師になりたいと思っていたわけではありませんでした。
“自分の周りにいる大人たちが、鼻高々に自慢できる存在でありたかった”
“一目置かれ、価値のある存在だと思われたかった”
──どちらかと言えば、そんな自分の価値を高めようとする気持ちが、その時のわたしの心の内を大きく占めていたのです。
遡ること幼少期、多忙な家族が唯一自分のことのように心を向けてわたしを褒めて喜んでくれた瞬間は「何かの賞を取った時」と「何かに選ばれた時」だったように思います。
何ならそういう時でもべた褒めするのではなく、あっさりとした褒め言葉らしき一言を投げてはほんのりと嬉しそうな反応をする家族に、「あっこの方向性は正解だったっぽい」と判断して常に正解を叩き出そうとしていた子供時代でした。
兎にも角にも身内のこととなるとあまりストレートに何かを褒めてくれる家族ではなかったのだけれど、今思うと“謙虚こそ美”という価値観と単なる照れ隠しからくる言動であったようにも感じられます。
しかし、幼いわたしが捉えた事実はそうではなかった。
「そうか、わたしが“何者か”になることでこの人たちは喜んでくれる」⸺そう捉えたのです。
幼い頃に得たこの考えはいつしかわたし自身の芯となり、家族に限らず先生や友達、わたしを取り巻くすべての人たちへと自然に適応されていきました。
たくさんの価値ある職業の中で医師を志すことに決めたのは、そういった思いと医療従事者の親族が非常に多いことが理由でした。親族の中に医師はいなかったので、“誰にも覆せない最上級の何者か”になるために医療系資格の中で最難関である医師という道を選びました。
「この道なら誰にも価値を覆せないし文句も出ないはず。この上ない無敵の正解を叩き出してやる……!」なんて。
“今の自分に欠けているもの”を肩書きがすべて埋めてくれる。そんな、非常に安直な考えでした。
(実際に夢を叶えることは何だって凄いことなのだけど)
今回は割愛しますが、それまでの学生時代がとても閉ざされていたものだったこともあり(個人的によしたん暗黒時代と呼んでいる)ある種の“人生逆転”だとも考えていたのです。
その選択が己の価値を絶対のものにすると、本気で信じていました。
そんな承認欲求を満たすようなふわふわとした甘い動機で、大事を為すためのモチベーションが長く続くわけもなく。
何かを知ることや何かを学ぶこと自体は好きではあった。医学にまったく興味がないわけでもない。それでも、正直なところ「自身の価値を証明するため」にやる事としてはとても荷が重かったのです。
「ここまで成さねば自身に価値が感じられない」という隠れた呪いと、「こんな崇高な志は価値のある人間にしか持てない」という小さくも高いプライドが、矛盾を孕みながら闇となっていつも心のどこかを蝕んでいました。それでも、そんな闇は見ないフリをして。だってこの志がなくなったら、わたしには何も……。
そんな真綿で自分自身の首を絞め続けてじんわりとした苦しさに苛まれていたある夏の日、わたしは特殊浴場という世界に出会ったのです。
つづき↓
「これまであまりお話ししてこなかったなあ〜」と思い、クリスマスという自分にとっての節目にふと書きはじめた自分史的な何か。
読み物として成立しているかはわかりませんが、暇つぶしにでもどうぞ📚
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