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1924盛平モンゴルへ【第四章 狂い始めた歯車】

◽️疑惑
 少し前まで滞在していた洮南で盧占魁を名乗る偽物が街を襲っているとの情報が入った。その話を張作霖が聞き盧占魁の討伐を命令したとの噂も巷に流れた。今回の入蒙は張作霖の指示を受けて始まったので、盧占魁は心配する様子もなく「張作霖と事前に打ち合わせをしていて、追っ払った馬賊を自軍に吸収するんだ」と説明。しかし盧占魁の殿(しんがり)を務めていた大英子児は洮南の憲兵に襲撃され司令部まで引き揚げて来た。それにも関わらず盧占魁はまだ張作霖に疑いの目を向けていなかった。

6月3日
一行は聖地である興安(コウアン)地方を目指す予定が、盧占魁いわくその方面には食糧がないため、綏遠(スイエン)と察哈爾(チャハル)地方から外蒙古を目指した方が良いと意見し日本人一行は渋々受け入れて行軍を開始。

松村真澄 植芝盛平

◽️銃撃
6月13日
知らず内に軍隊は大庫倫とは真逆の奉天の方向に進み始め、盧占魁を問いただすと兵糧が足りないから、民家の多い方向に進むと回答。そんな不安な気持ちを抱えている時に突然発泡音が鳴り響く。どうも開魯の軍隊が迎え撃ちに来たようだったが、盧占魁が応戦するなと指示を出し、運良くそれ以上の惨事にはいたらなかった。

 この時、大胆にも弾丸の雨の中に立ち、冷静に相手方を分析したと評判になったのは松村真澄と言う人物だった。開祖の出番を少し期待した合気道家のみなさん私も「あれっ?」と同じ気持ちでした。さて開祖がモンゴルで銃弾を避けるお話は合気道家の中では有名ですが、霊界物語には一切記述がありませんで。お話の中で日本人が接近戦をしている描写がない以上、仮に開祖が撃たれたとするならば見通しの良い平原で遠くから撃たれた可能性が高く、遠距離かつ昔の銃であれば命中率は低い。そもそも威嚇射撃の可能性もあったはずです。もしかすると弾を“避けた”のではなくただ“外れた”だけだった、とその線も否定できません。

◽️最後の舞台、白音太拉
 ここに来てようやく盧占魁は張作霖が誤解してこちら側に兵を向けているのではと思い、話をつけに白音太拉(パインタラ)経由で奉天に行くと言い出すも、村民の噂によると既に数千の軍隊が白音太拉で盧占魁を討伐するために待機しているとの情報を得ていた。盧占魁はそれでも自身が討伐される事が信じられず、話をまとめると聞かなくなってしまった。

 盧占魁は出口王仁三郎と白音太拉に向かい、張作霖の部下である闞朝爾中将と協議し武装解除を行う事で和平交渉を合意できました。しかし盧占魁が協議中に出口王仁三郎は旅団司令部にて拘束。その後、盧占魁が旅団司令部に説明し拘束を解除してもらって事なきを得ました。

◽️モンゴルの鴻門宴
6月21日 
誤解もあり先方から一等旅館の鴻賓館で和睦目的の宴会を行いたいと打診があり、そこでは中華料理、お酒、芸者、アヘンが振る舞われ盛平も楽しい夜を過ごし、その日はみなが気持ちよく就寝することができました。
 しかし真夜中に突然旅団司令部の軍人が寝てる西北自治軍の1人1人を営門外に連れ出し、何事かと思う隙もなくすぐさま機関銃で射殺。盧占魁も盛平達と挨拶もできず虚しくそこで人生を閉じる事になりました。
 盛平含め日本人はと言うと盧占魁とは別の旅館で寝ており、銃を突きつけられ捕縛され、旅館の庭前に引き出されました。服も脱がされ、所持品も盗まれ、そんな最中に銃殺するとの中国語も微かに聞こえる。これには出口王仁三郎もいよいよキリストになって皆んなを天国に連れて行くと言い始め、井上はありがとうございますと言うも盛平は終始沈黙でした。
 銃殺場への移動途中に西北自治軍が射殺された現場を通ったが、これまで楽しく旅をしてきた仲間たちの無惨な死体の山があり、その尸は荷台でどこかに虚しく運ばれている最中でした。奇しくも直ぐには処刑にならなかったが手枷と足枷を繋がれ、いつ命が絶たれるか分からない日々を過ごすことに...。

パインタラで拘束された際の写真

◽️オール日本での救出劇
 鴻賓館に泊まっていた別の日本人がこの事件に気付き鄭家屯の日本人領事館に連絡。領事館の土屋書記生が6月22日に到着し白音太拉の知事と面会。出口王仁三郎らの引き渡しを交渉をするも、かなりの時間を費やし7月5日にようやく日本領事館へ引き渡しとなる。
 拘束期間中は居留日本人会長太田勤、満鉄公所の志賀秀二、日本から広瀬義邦、水也商会の小野らが面会しに来て助けてくれたそうです。また大本一行は法廷にも連れ出されて取り調べなども受け大いに弁明をした記録があります。
 在支日本領事館では大本一行に三年の退支処分を命令した上で強制送還。7月25日遂に日本の土を生きて踏むことができました。
 日本中が出口王仁三郎の帰還に夢中になり、多くの人が歓迎し、あたかも凱旋さながらでした。国賊から英雄として受け入れられたことを考えると、当初出口王仁三郎の表向きの宗教国家建国は失敗しましたが、本音である日本人から見直されたいと言う目的は達成できたのではと思います。ただ悲しいことに1935年第二次大本事件ではまた非国民と呼ばれる日が来ます。(終戦後の1947年に不敬罪の無罪が確定し国家権力の弾圧だったことが後に判明します。因みに弁護団からは賠償請求するべきと勧められましたが「国民の血税に負うことは忍びない」と請求はしませんでした。)

帰国時ハルピン丸船上にて撮影
真ん中後方 王仁三郎 右下 盛平


◽️あとがき
 霊界物語には後日談として張作霖の部下である闞朝爾中将が越権処置し、張作霖が手を下したわけでないと書かれていました。ただ下記写真の通り5月の早い段階で張作霖は盧占魁の討伐を指示。日本領事館にも大本一行の捕縛依頼をしておりました。どの辺りから自己都合の為の記載か霊界物語では不明です。そもそも学術書ではないのでその辺りを理解いただき今回の物語を楽しんでいただけたらと思います。

張作霖の討伐命令

◽️所感
 みなさんは霊界物語での盛平をどう思いましたか?私個人ですが霊界物語【入蒙記】に出てくる登場人物はその信仰心、豪傑さ、政治力など褒め称えられる中、開祖に関する記述の大半が柔術もしくはドジな内容が多く、全体を通してみると武術以外では頼りない武道オタクの印象を受けました。
 一方で今回の入蒙記を見て人としてとても愛嬌のある身近な人物に感じましたし、数多い信者の中で開祖が連れて行かれたのも、描写しきれない魅力があったからだと思います。

 さて盛平はこの入蒙記から13年後の1937年満洲国建国大学の武道顧問を務められます。五族共和の理念を掲げた満洲国に盛平はどの様な気持ちで再び降り立ったのでしょうか。

1942年 建国十周年慶祝 日満交歓武道大会

 次回、塩田剛三の父である塩田清一が育てたモンゴル人青年のお話を特別編として紹介。開祖含め当時の日本人と蒙古人が時代に翻弄され悲しい行き違いの未来を紹介したいとおもいます。

つづく

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