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1924盛平モンゴルへ 【最終章 塩田家とモンゴル】

 盛平の蒙古の旅は一旦終わりですが、盛平はその後も満洲国で武道を広め、中国に行き蒋介石と和平交渉するなど大陸で尽力し続けます。しかし満蒙の未来には悲惨な未来が待っており、その全モンゴルの悲運を象徴するかのような蒙古人を塩田清一(養神館創始者の塩田剛三の父親)が育てました。

◽️塩田家が育てた蒙古人
 塩田清一は蒙古独立運動をしていたパプチャップ将軍の娘ドルヒチチク(和名:田中顕子)を匿っておりました。塩田清一は息子の剛(本名)に彼女と結婚させ蒙古の王様にさせる目論みがあり、剛もまんざらでもなく初恋の相手だったそうです。武道に励む大きな理由の一つが蒙古の王になる為だったと自伝に書いてありますので、ドルヒチチクがいなければ合気道家としての塩田剛三は生まれていなかったかもしれません。

塩田清一が設立した養神館(総合武道)
真ん中の子供が塩田剛

 ドルヒチチクには兄ジョンジュルジャプがおり、塩田清一は彼に毎月3,000円(現在の約5百万円)を仕送り、日本の陸軍士官学校に通学させました。卒業記念にはなんと3万円(現在約60百万円)の大砲をプレゼント。また東條英機など大物を紹介して人脈を作ってあげました。そのおかげでジョンジュルジャプは日本に協力してくれる代表的な蒙古人となり、モンゴル側の資料でも塩田清一は父の様な存在だとも書かれていました。

◽️日本人として歩む
 そのジョンジュルジャプは川島成信と言う日本名を名乗り、また米山蓮江(スミエ)さんと言う日本人を愛し結婚。まさに日本人としてその時代を歩んでいました。蓮江さんは結婚後すぐ脚気で亡くなりますが、少し経った後、また日本人の再婚相手を見つけ、塩田清一に紹介。ただ悲しい事に塩田清一は彼女の出自が穢多非人だと言う事で結婚を許可しないどころか彼女を罵倒したと記録には残っています。大国の狭間で自決できない弱小民族の蒙古復興を支援しながら、身近な日本において低い身分にスポットライトが当てられていないのも時代の残酷を感じます。(全国水平社は既に運動を始めている時代)

満洲国国務院

 ジョンジュルジャプは満洲国成立後に現地で公安として働き、他民族との折衝をはかるなど民族間の問題解決に協力。その後は民族自決の為、モンゴル人からなる軍官学校設立を日本側に提案し認可を貰いました。

興安軍官学校の開校式

 ジョンジュルジャプは設立された興安軍官学校で参謀長になり、モンゴル人同士が殺し合う(日ソの代理戦争)悲劇の「ノモンハン事件」でも日本側の立場を忠実に守り活躍。このようにジョンジュルジャプは日本と共生し、また日本人も彼と蒙古の未来を気にかけ復興に手を貸していきますが...

1945年8月9日の終戦前

彼はお世話になった日本の軍官を29名殺害

シニヘイ事件を起こします。

彼の最期は1967年ハイラル河付近の営林場で首を吊って自殺...文化大革命の一年後

ノモンハン事件

◽️行き違いと悲しい未来
 後味の悪いお話になりましたが、ジョンジュルジャプの様な人生は例外ではなく、むしろ当時の代表的な少数派民族の行動だったと思います。
 満洲国の建国大学生(満洲人、蒙古人、朝鮮人,支那人、ロシア人)が戦後のインタビューで同じ様な人生を辿っている方がいました。それまでは仲良くしていた日本人同級生とは敵となり闘うと言うのは珍しくなかったのだと思います。
(勿論その逆で日本の敗戦後も大陸では戦争が続きますが生徒同士強固に関係性を維持し、国交回復後に国同士の友好関係に奔走し同窓会も行った人達がいるのも事実です)

他民族の学生達

 時を戻し、大本一行が仮に蒙古人に歓迎され、感謝され、宗教国家を建国していても同じ未来だったのではと思います。
 終戦と言う蓋を開けてみて日本人は初めて立場の弱い民族の素顔を理解したように思います。その逆もしかり、日本統治時代の台湾では抗日運動が激しかったのですが終戦後は親日に。時代とは不思議で人々をどの様な未来に連れて行くか分かりません。

 そうとは知らず当時の日本人は満蒙の夢に駆られ、大陸浪人や満蒙開拓団が大勢押し寄せることになります。

 いわんや盛平をや。若かりし盛平は自身が素晴らしいと思う大本の教義と自信のある柔術を抱いてキラキラとした気持ちで深夜亀岡駅を発ったのではないでしょうか。

皆さん大阪の道場にも遊びに来てね

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