誰そ彼(2/2)
目覚めて窓の外を眺めると夕暮れだった。
予想はしていたが、やはりショックではあった。ついに観念するときがきたか。生命の危機にでも瀕さない限り外には出ないと誓っていたがその時がきたようだ。厳粛な儀式を行うかのようにものものしい手つきで靴ひもを結び、玄関を出た。久しぶりに触れる外の空気は爽やかで瑞々しく少しの緊張を帯びていた。夕日の赤さになんとなく夏のような雰囲気を感じたが暑くはなく、風はなかった。この状況を打開するために何をするべきかは皆目分からないが家の中にいることはしてはいけないことだと感じた。外に出て探す必要がある。何を? 何かを。
街の中を歩きだす。病院の前、玩具店の前、八百屋の前、本屋の前、電器屋の前、散髪屋の前、墓地の前。下り坂、平坦で見晴しの良い道、登り坂、公園を横切って神社の石段に面した道へ出る。この間、誰にも出会うことはなかった。もしかしたら、この世界中に俺一人だけ残されてしまったのではないかな~。他の人はみんな消えてしまったのではないかな~。と半ば自棄になって声に出してみた。うなだれて遊歩道にへたりこむ。あれだけ歩きまわったというのに疲れはまったくなかったが、一念発起して行動をおこしたというのに成果がまったく得られない現状に落胆した。細めた目を彼方へ向けてぼんやりとしていると遠くの方からやってくる人影が見えた。
とっさに街路樹の影に隠れる。やっと人間を見つけたようだ。しかし、この誰もいない状況でただ一人存在する人間はただ者ではないだろう。とりあえず様子をうかがおう。服装や体格から察するにどうやら女性のようだが夕闇にまぎれて顔はわからない。特に普通の人間と違ったところはないようだ。声をかけるか。これだけ探してやっとみつけた人間だ。次にいつ会えるともわからない。もしかしたらこの街にはあの女性一人しか存在しないかもしれないではないか。さあ、彼女の前に飛び出して話を聞こう。この世界はどうなってしまったのか。なぜずっと夕暮れなのか。彼女も事情はわからないかもしれない。そのときは一緒に考えればよいではないか。一緒にまた人探しをしてもいい。どのみち話しかける以外に道はないのだ。さあ、飛び出そう。今。今だ。もう目前まで彼女は迫ってきてるじゃないか。飛び出すなら今しかない。
今、俺は小さくなっていく彼女の後ろ姿をみつめている。あと一歩の勇気がでない。人付き合いは苦手だし、女性は特に苦手だ。そのうえ、今日まで何年もひきこもっていたのだ。
そのとき、風が吹いた。
彼女のスカートをまくりあげる。短い悲鳴が聞こえた気がした。気づけば俺は走り出していた。風はまだ吹いている。彼女はまくれあがるスカートを押さえているものの風の勢いは強く、ちらちらと白いモノが見える。
「あの、すみません」
彼女の背後に立ち、俺は声を出した。声が震えてしまわないか不安だったが、思ったよりもしっかりとした声が出せた。彼女がゆっくりとこちらを振り返る。困ったような顔に微笑みを浮かべていた。
俺の心臓がドクンと一度だけ大きく波打った。
ここからは、全てがスローモーションに感じた。走馬灯を体験したことはないが、もし今後体験することがあればこのようなものだと思う。彼女の表情から微笑みが消え、ついで目が大きく見開かれた。次に口が開かれて代わりに目が閉じられる。口が開かれてから少し遅れて悲鳴が聞こえる。俺はここで気づいた。
俺は今、全裸だった。
さっと血の気が引いてゆき、意識が遠ざかってゆく。
目覚めて窓の外を眺めると夕暮れだった。
ほんの2、30分の昼寝のつもりだったのにどうやら寝過ごしたようだ。偏頭痛をこらえながら急いで企業の面接会場へ向かう。小さいが堅実な経営で将来性が見込まれている企業だ。なんとか面接までこぎつけたのだ。このチャンスは絶対にモノにしなければならない。久しぶりの全力疾走に汗をかきながら思う。この数か月はいろいろなことがあった。
目覚めてみると空き巣に荒らされていたり(盗まれたものは何もなかったが家中の窓ガラスが破壊されていて、おまけに冷蔵庫の中身がまるまるゴミ箱に捨てられていた。これだけ荒らされよく目覚めなかったものだと警察にあきれられた。)、夕暮れになると偏頭痛がするようになったり、家の中では全裸で過ごす習慣がついたり、ずっとひきこもっていたのに急に働く気が芽生えてこうして面接会場へ向かっている。
面接会場であるその企業の会議室に着いたのは約束の時間を少し過ぎたころだった。これはマズイ。とにかく誠心誠意謝ろう。会議室のドアをノックする。ドアを開けるやいなや、頭を下げて遅刻を詫びた。おそるおそる頭を上げると、面接官だと思われる女性と目があった。室内には彼女一人のようだ。まだ若いようにみえるが新入社員の面接を任されているのだからそれなりに経験は積んでいるのだろうか。ドアを開ける勢いが強すぎたせいか驚いた顔をしている。気のせいか以前にどこかで会った気がする。彼女は少しうつむき加減にツカツカと音をたてながらこちらに近づいてきて、俺から50センチメートル手前で止まった。
俺の心臓がドクンと一度だけ大きく波打った。
この感覚も以前に味わったことのあるものだ。全てがスローモーションに感じる。走馬灯を体験したことはないが、もし今後体験することがあればこのようなものだと思う。彼女は顔をあげた。驚いた表情はすでに消えていて、かわりに怒ったような恥ずかしがっているような表情を浮かべている。目が潤んでいる。視界の左から何かが俺の頬に向かってやってくる。彼女の右掌だった。俺の頬に鋭い衝撃がはしる。
唐突に、俺は彼女と結婚するのだと思った。
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