小説 鉄風
風子がしんだ。風子は年寄りの黒猫でメスだった。今朝はまだよろよろと家の中を歩いていたのに、甚太が昼ごはんをあげようと探していた頃には既に縁側で事切れていた。甚太は猫の死骸を見たのが初めてで怖かったから、すぐに兄の淳平を呼んだ。淳平は六つ上の兄で、甚太にとって父親よりも頼れる存在だった。淳平は、風子の背中をさすって冷たくなっているのを確認すると、死んだな、と呟いた。それから、台所に向かって歩き出した。甚太は体育座りで風子の亡骸を不思議そうに眺めていた。少しすると、淳平が透明なゴミ袋を持ってきた。風子を両手のひらで持ち上げるとするりとビニール袋の中へ入れた。
「黒い袋にしないと、かわいそうだ」
甚太の言葉に淳平は反応せず、器用に風子をビニール袋で二重三重にくるんでいった。すると、透けて見えていた猫の死骸が曇って見えなくなった。それを見た甚太は、黒い袋とおんなじ事だと得心した。
「風子、どうするの?」
「どうするか。庭に埋めようか」
甚太は雨戸を開け放した。その勢いのままに庭に飛び出そうとしたが、物凄い風圧が耳をつんざき、縁側で尻餅をついた。その様子を見た淳平が、風が強いな、と微かに呟く。
「雷蔵は?」
「今日は見てない。餌皿を見てみろ」
甚太は台所に駆けていき、間もなく、少し食べてる! 雷蔵まだ生きてる!、と声を上げた。
「じゃあ、昨日の晩に帰ってきたんだろ。そんで、また出て行った」
「よかった」
ほっとする甚太を見て、淳平はむず痒さを覚え、口を開いた。
「猫は死ぬ時、家を出て行くんだ」
「どうして」
「猫の本能だ」
「でも、風子は家でしんだ」
「風子は雨戸があったから出られなかった」
「じゃあ、雷蔵もしんだの?」
「わからない」
甚太は目を潤ませ、今にも泣きそうな様子だった。雷蔵はオスの黒猫で、風子の兄妹猫だ。甚太は、毛足の長い雷蔵をライオンのようだと気に入っていた。
「雷蔵はどこ?」
「わからない。これほど強い風だから、飛ばされているかもしれない」
甚太がまた泣き出しそうになったのを制するように淳平は続ける。
「河川敷まで行ってみよう。そこまで行って見つからなかったら諦めろ」
甚太はうなづいた。淳平は風子の入ったビニール袋を廊下の端の方へ運ぶが、甚太はそれを止めた。
「風子も連れて行こうよ」
淳平は風子を再び小脇に抱えた。もしも道中で雷蔵の死骸を見つけたら、合わせて河川敷のあたりに埋める腹づもりだった。あそこは地面が柔らかいから、墓穴を掘るのは簡単なはずだと計算も働いた。
玄関から靴を持ってきて縁側から外へ出る。太陽に雲がかかって薄暗いが、雨の降る気配はなかった。それよりも、風が気になった。木々の葉や草が、ざざざ、と激しく擦れる音が自分に警告をしているようで、甚太は不安になる。
「帽子、気を付けろよ」
声をかけられて見上げると、淳平の肩の位置が高いことに父性を感じ、頼もしく思った。
「わかった」
甚太は帽子を目深に被り直した。
歩いてゆく道のりに人はおらず、車の通りもほとんどなかった。この強風を恐れているのだろうか。確かに少しは恐いような風だが、それほどのものとは思えなかった。再び淳平を見上げ、平気そうな様子を心強く感じた。
あとはあの直線を越えれば川沿いの道へ出るという時、正面から、ぶおん、と音を立てて強烈な風が吹いた。とても前方を向いてはいられない。顎を引いて体を横に捻った。そうしないと呼吸ができなかった。
甚太の帽子が風に飛ばされた。夢中で追いかける。走っているというより、背中に当たる風に飛ばされている感覚だった。淳平が大声で叫んでいるのがわかる。走りながら首だけで後ろを見ると、そこに淳平の姿はなかった。足を止める。どこに行ったのだろうと見回すが、見通しのいい一本道だというのにやはり淳平の姿はない。下腹部から焦燥感がせり上がってくる。はぐれてしまった。頭が真っ白になり、眉間に圧迫を感じた。どうしよう。
「おうい」
一本道の先の方から声がする。淳平の声だ。あまり距離が離れてしまったから見えなかったのだろうか。よかった。淳平の近くまで駆け寄る。
「さあ、もう少しだ。河原まで行こう」
差し出された手に安堵を覚える。兄と手を繋ぐのはいつぶりだろうか。しかし、甚太はまだ帽子を見つけてはいない。
「でも、帽子が」
「いいじゃないか。飛ばされてしまってはもう見つからないよ」
帽子は淳平のお下がりで、甚太はひどく気に入っていた。とても諦めきれない。
「すぐに取ってくるから」
「だめだ」
踵を返したところで左腕を掴まれた。物凄い力に甚太は呻いた。淳平がどこかおかしい。この淳平は、雷蔵が化けた姿なのではないかと甚太は思った。
「離して」
「離さない。お前は俺と河原へ行くんだ」
淳平が口を大きく開けて叫んだ。口は耳の根元まで裂け、声はガラガラに枯れていた。甚太は恐怖で叫んだ。
その時、風が吹いた。その風はこれまでのものよりも強く、尖った鉄のように鋭かった。衣服はまるで役に立たず、地肌が直接無数の刃物で切り裂かれるようだった。不意に掴まれた腕を離され、甚太は前のめりに倒れた。
衣服越しの肌の温もりと上下の揺れを感じて目を覚ました。どうやら自分は淳平に背負われているようだった。兄の背中は汗でしっとりと濡れていた。
「起きたか」
声色を聞いて安心する。淳平で間違いないようだ。
「雷蔵、見つからなかったな」
「風子は?」
「河川敷に埋めた」
甚太は安心と寂しさで胸がいっぱいになった。
「風子とまた会えるかなあ」
淳平は反応に困ったようで、少し間を空けてから、そうだなあどうだろうなあ、と返した。
辺りはもう茜色に染まっていた。あんなに鋭かった風は夕日を浴びてふやけてしまったようで、生ぬるく頬を撫でていく。甚太はそれを少し残念に思うのだった。
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