小説 試される
俺は、試されている、と感じることがある。試されていないかもしれない。実際には試されていないかもしれないが、試されていると感じている。そう、感じている事自体は真実であるのだから、なにかの由来は実在するはずなのだ。
俺は、横断歩道を渡る。考えごとをしていたために、信号が青になったのにすぐには気づかず、周りよりワンテンポ動き出しが遅くなった。横断歩道を渡り終えた刹那、明らかなスピード違反のトラックが俺の真後ろを轟音をたてて通り過ぎる。
俺は思う。もしも考えごとにもっと熱中していたら、動き出しがさらに遅くなってトラックの餌食になっていたかもしれない。これも一つの試練なのだろう。
待ち合わせ場所では友人が待っていた。何やら相談事があるとのことで呼び出されたのだ。オープンテラスで店員にアイスコーヒーを注文したら妙な顔をされた。寒い季節であるため、珍しいのだろう。俺だって温かい飲み物がほしいところだが、熱いコーヒーを運んできた店員がトレイをひっくり返したら。そのコーヒーが俺に降りかかったら。そんなイメージがよぎってしまったらアイスコーヒーを注文する他ない。
友人はホットコーヒーを注文したようで、もくもくと立ち上る湯気が羨ましかった。
「お金を貸してくれないか?」
アイスコーヒーがくるまで沈黙を保っていた友人が口火を切った。意外な展開ではなかった。この友人は事業を興していて、それは順調ではないようだったからだ。俺は、二の句を継ごうとする彼を掌で制した。懐から封筒を取り出して彼に手渡す。
「これは……?」
「中に50入っている。これ以上は渡せない。そして、俺たちの関係はこれっきりだ」
彼は大股を開いて頭を下げた。俺は黙って席を離れる。店の敷地から出る時に振り返ると、彼はまだ頭を下げたままだった。これで彼は友人ではなくなった。
帰り道、俺は想像を巡らせる。お金を貸さなかった場合、彼は逆上して僕に危害を加えたかもしれない。カップを手に持ち、ホットコーヒーを俺に浴びせかけたかもしれない。熱いのは嫌だ。熱いのだけは。
背中にある火傷跡がうずく。俺は幼少の頃、火事で家族を失った。背中に火傷も負った。複数の四角形が弓なりの形に収束したような特徴的な形の火傷だ。それから、政府が運営している育児センターに預けられた。数年後、そこの職員に湯浴みさせられた際に熱湯のシャワーを浴びせられた。浴室のタイル張りの床で転げ回る俺をみて職員は驚いていた。後で聞いた話だが、そのシャワーは温度が自動制御されているらしく、熱湯で火傷などは起こり得ないらしい。治りかけていた俺の背中の火傷は再び開いた。不思議なことに、以前の火傷とまったく同じ形の跡だった。
それから、周期的に俺は火傷を負った。通り魔に硫酸をかけられたこともあった。電車でホットコーヒーをぶちまけられたこともあった。その度に背中に同じ形の火傷跡ができた。
なぜだろうと思わない日はなかった。人為的なものだとは考えられない。なにかがあるのだ。思い返してみると、俺の行動が関係している気もする。親の言うことを聞かなかったり、学習テストの成績が悪かったり、そういったものの罰として背中に火傷を負わされているのではないか。
それからは、いつ来るかわからない試練に打ち勝てるよう、生活に細心の注意を払った。知らない老人を背負い、知らない子供に甘いお菓子を与え、知らない子猫を拾った。大概は感謝された。親切な男として記事にされた事もあった。
それでも、背中の火傷は絶えなかった。全ての試練を乗り越えるなど、できないのかもしれない。しかし、火傷の耐え難い痛みがなくなる可能性があるならば、行動せずにはいられない。
住まいであるアパートの部屋のドアを開けると、恋人がソファに座っていた。俺は全身を緊張させる。試練は多くあれど、彼女とのやりとりほど難度の高い試練はない。
「おかえり」
「ああ、ただいま」
「驚かないのね」
試練を意識し始めてから、俺の表情は感情を置き去りにしている。
「驚いたさ。どうやって入ったんだ?」
「これ」
彼女は俺の目の前に鍵を掲げてみせた。
「作っちゃった。合鍵」
どうすればいいのだ。さすがに怒るべきか。ただし、慎重に。
「それは困るな」
「あら、どうして? 私に会える機会が増えるのに?」
「困らないが、困るんだ」
「どういうことかしら」
どういうことだろう。ゆっくりとした動作で彼女の横に座って足を組む。ささやかだが考える時間が稼げた。
「……君に会う時の俺は着飾っている。そう。君によく思われるために着飾っている。でも、部屋の中ではどうだ。だらしがない格好だ。髭だって伸びている。君には格好のいい姿だけを見せたいのさ」
「ふぅん。まあ、合格ね」
良かった。合格だ。……いや、待てよ。この女、合格と言ったか。
「それで、私はこの部屋に居たらいけないわけ? 合鍵まで作ってあげたのに?」
ここまで明確に試されているのは初めてかもしれない。間違えるわけにはいかない。間違えたら確実に罰がくるだろう。
「……そうだな。まず、合鍵の件はありがとう。感謝する。手間が省けた」
「手間が省けた? どういうことかしら」
どういうことだろう。俺が教えて欲しい。
「実は、君には合鍵をプレゼントするつもりだったのさ。ほら、もうすぐ記念日だろう?」
「確かに、一週間と三日後は出会ってからちょうど一年の記念日ね」
「そういうことだね」
「でも、だらしがない姿をみせたくないあなたが、どうして合鍵をくれるのかしら」
「わからないのかい?」
わかるわけないだろう。俺だってわからない。でも、なんとか絞り出さなければ。
「これは俺なりの決意表明さ。つまり、俺のすべてをさらけ出して君とより深い関係を築きたいというね」
「まあ! 嬉しいわ」
彼女はソファから立ち上がってキッチンに向かう。
「話が長くなりそうだから、コーヒーを淹れるわ」
すぐさま俺も立ち上がりフォローする。
「君は座ってゆっくりしててくれ。コーヒーは俺が淹れるよ」
彼女がムッとした顔で振り返る。俺は蒼ざめる。
「いいから」
俺はソファに腰をおろす。
どうしよう。なぜだ。油断した。まずいぞこれは。わからん。なぜだ。
思考がまとまらない内に彼女がコーヒーを運んできた。湯気をたてるホットコーヒーほど恐ろしいものはない。どうにかこいつを回避しなければ。これ以上ミスはできない。
「どうしたの? 飲まないの?」
「もちろんいただくさ。ありがとう」
しめた。俺はコーヒーにがっつく。なるべく早く飲み干そう。
「あ、ゆっくりでいいのよ」
なぜか彼女は慌てた様子だ。俺はコーヒーから口を離す。
「よっぽどノドが渇いてたのね。そんなに飲まなくても十分なのに」
どういう意味だろう
「どういう意味だろう」
「すぐにわかるわ」
どういう意味だろう。俺は意識が急に遠のき、再び覚醒する。視界が天井だけになり、首が縦に大きく振れる。床のタイル模様が眼前に広がり急速に近づいた。
目が覚めると、俺は裸でソファに寝そべっていた。
「起きなさいよ。ほら」
なにか紐状のもので臀部を刺激される。
意識がはっきりした。
手足が縛られているらしく、起き上がることができない。
「びっくりした? あなたが勇気をだしてくれたから、私も自分をさらけ出そうと思ったのよ。どうかしら」
彼女は奇妙な格好をしていた。顔やつま先は厚みのある皮製のアラビア風衣装をつけているが、胸部から腹部、臀部については露出している。手には数本の紐が束ねられたものがついている棒が握られていた。
「ふふふ。驚いて声も出ないようね」
声を出そうとしたが、ピュー、ピューと甲高い音しかでなかった。あまり装着感がないから気づかなかったが、特殊な猿轡を嵌められているらしい。
彼女は自分のバッグを漁り、太い赤色の蝋燭を取り出した。
「こういうの、初めてかしら」
蝋燭に火をつけ、俺の背中の上までもってくる。
俺は観念した。どうやら試練に負けたようだ。
蝋が落ちる。
俺は絶叫した。
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