箱舟

 舟の上は多種多様な動物たちでごった返していた。この状態を例えるのならば敷地が小さい動物園とでもいえばいいのだろうか。しかし、動物園では動物たちは柵の内側にいるべきだが、ここでは完全に野放しだ。まあ、近頃の動物園ではふれあいコーナーとかいって動物たちを開放している一画もあったりするそうだが、飼育員の立ち合いがあるのだろうし、ふれあわせる動物もせいぜいハムスターやウサギなんかの小動物だろう。少なくとも虎やライオンはふれあわせない。しかし、ここには虎もライオンもいるのだ。身の危険を感じることおびただしいが、どうやらやつらに俺を襲うつもりはないらしい。肉食獣たちは平和そのものの顔つきでじっとしている。いや、肉食獣たちだけではない。舟の上の動物たちはみんな、カラスもハトもゾウもキリンもヌーもネズミもミミズもオケラもアメンボもみんなじっとして動かない。まるでみんなで示し合わせでもしたかのように鳴き声ひとつたてようとはしない。

 どうして俺はこんなところにいるのか。たしか、ナエとラブホテル『箱舟』の駐車場へ車を停めて、それから……。思い出せない。しかし、記憶のなくなる直前にナエと一緒にいたということは彼女がこの舟にのっている可能性はあるだろう。動物たちの合間をぬって彼女の姿を探しながら考える。昼間のようだが、厚い雲が空にかかっているために辺りは薄暗い。ナエとホテルにいったのは夜のことだったから、結構時間は経過しているようだ。獣臭くて温かな肉の壁を押しのけながらしばらく探していると、舟のはじで小さくなっているナエを見つけることができた。彼女は座りこみ、ひざの上に頭を乗せて恐怖に耐えているようだった。やさしく声をかけてやると、すぐさま抱きついてきた。やはり、ひとりで不安だったのだろう。軽く背中をさすってやる。

「ここは、どこなのでしょうか?」

「わからん。だが、ここから脱出するのは難しいだろうな」

俺は、荒れた海面を見つめる。

「ほかに人がいる様子もないし、今はまだじっとしているしかないだろう」

彼女はまた座り込む。

「やっぱり、天罰なのかな……」

俺には妻がいて、ナエは妻ではない。

「そんなバカな話があるか……」


 妻との間に溝を感じ始めたのは最近のことではない。いがみ合ったりすることはないが、どことなくお互いに距離をとるようになっていった。きっかけは妻が不妊症であることが発覚してからだった。それでも、俺は妻を愛していたし、子供をつくれないことに負い目を感じている妻を気遣い、できる限りのことはしてきたつもりだ。しかし、その献身はいつしか、妻にとっては違和感に、俺にとっては重荷に変化していった。

 じっとしていた動物たちがいっせいに動き出した。恐怖を感じた俺たちは抱き合って身を強張らせたが、そんな必要はなかった。動物たちはみんな一斉に交尾を始めたのだった。よくみてみると動物たちはそれぞれ一種ずつが、つがいになっているようだった。

「これではまるでノアの箱舟だな」

冗談のつもりだったが、状況を鑑みるとその結論は笑えないものだった。

何よりも理屈ではない本能の部分が感じとっていた。”まるで”ノアの箱舟、ではない。”事実”これは箱舟なのだと。

ナエを見ると、彼女は眼をうるませてこっちを見つめていた。

「わたし、どうしちゃったんだろう……」

ナエは俺の右手の手首をつかむと、強引に自らの胸元へと引き寄せてくる。

「さわって……」


 そのほか大勢の動物たちと同じように、俺はナエの上に重なって腰を振っている。もし、人間も一種の動物に過ぎないのだと言っていただれかがこの光景を見たなら、さぞかしご満悦だろう。しかし、そんな彼も今や海の底だ。会社もアパートも妻も世界も全部、海の底だ。俺とナエだけが生き残ってしまった。俺は溢れ出る情欲を満たしながら、しかしそれとは裏腹に、無感動に腰を振り続ける。あまりに非現実的な現実を受け止められず、俺の意識は過去の虚空をさまよう。妻と出会った時のこと、初めて一緒に過ごした夜のこと、楽しかった新婚時代、不妊症が発覚して病院で泣きじゃくる妻、出会うことのなかった想像上の赤ん坊……。妻と過ごした日々を想い、胸がチクリと痛んだ。

いいなと思ったら応援しよう!

吉村トチオ
最後まで読んでくれてありがとー