観察力
記念行事の代休で会社が休業日であることを忘れ、うっかり出社してしまった俺は、貴重な休日のひとときを無駄にしたことを悔やみ、平日の午前中、だれもいないオフィスで自分のデスクに腰掛けて頭を抱えていた。ひとしきり後悔した後で、時間を無駄にしたことを悔やむ時間が無駄であることに気づき、だれもいないオフィスで頭を抱えて後悔する行為を再開しようとしていたとき、ポケットにいれた携帯電話のバイブレーション音が鳴り出した。電話は友人の推理作家からだ。
「面白いものが見られるぞ。すぐにこっちに来い」
友人から呼び出されたのは会社の近所にあるファミレスだった。街ではよく見かける黄色い看板のチェーン店だが、店の中に入るのは初めてだった。会社と自宅を往復するだけの毎日にファミレスは不用なのだ。
店内に入ると、友人が大きく手を振って居場所を知らせてくれた。
「よく来たな。ずいぶん早かったじゃないか」
早く来られたのは間違えて休業日に出社したからだったが、そのことには触れず、面白いものとはなにかを言えと促した。
「実はな、あのカップルなんだが……。」
友人が目線で教えてくれた方をみると、向かいの席に椅子に腰かけたカップルがいた。女の方は俺たちに背を向けて座っているため顔は見えないが、男の方の顔に見覚えはなかった。
あのカップルがどうかしたのかと問うと、友人は得意気な顔で語り始めた。
「ふふん。お前は観察力がないようだな」
なにかおかしな点でもあるのかと思って目を凝らしてみるが、特になにかを察知することはできなかった。強いていえば……、痴情のもつれだろうか、なにやら喧嘩でもしているようだが……。それにあの女の方……。
「まあ、よく見ておけ。そろそろ実行するだろうから……」
カップルの男がかばんの中をごそごそとまさぐり小箱を取り出して、女の前に差し出した。小箱を開けると、そこには銀色に輝く指輪が見える。
「さあ、きたぞ。これぞプロポーズだ」
どうやらこれを見せたかったらしい。
友人はにやにやとカップルを見ながら話しを続ける。
「ふふん。こうなることはわかっていたのだ。会話の内容、男の素振り、バッグから覗いていたブランドロゴ……。推理作家の観察力を思い知ったか?」
お前の言う面白いものとはこのことか?
「なんだ反応が薄いじゃないか。他人のプロポーズを生でみるなんてそうそうないだろう? フレッシュさに欠けるわれわれ中年としては、せいぜいノスタルジーに浸らせてもらおうじゃないか」
冗談じゃない。ノスタルジーになど浸れるものか。
たしかにお前には観察力はあるようだが、記憶力は人並み以下のようだ。
俺は立ち上がってカップルの男のそばまで早足で詰め寄り、男が腰掛けていた椅子を思いっきり蹴っ飛ばした。突然の出来事に呆然として尻餅をついている男の頬に拳骨で一撃を加える。悲鳴もあげずに呆然とこちらを見ているカップルの女は俺の妻だった。一瞬の間をおいて呆然自失から立ち直った妻は、俺の存在を無視して床に倒れてのびている男を介抱することに決めたようだった。冷静に対処できる自信がなかったため、おれは妻に声をかけずに帰ろうと決めた。
それにしても、お前は……。おれの妻の顔すら覚えていないとは……。振り返って友人の顔を見たとき、おれは推理作家という人種の友人をもったことを後悔した。彼はにやにやと笑いながらこちらを観察していた。