It’s a small world ! 第一話
シュワッとサイダーがコップの中で弾ける様を見ていたらヤナセ先生のことを思い出した。ぼくはヤナセ先生の話が好きだった。先生の話は大体のところ主旨がよくわからなかったけど、ご当地B級グルメのようなオリジナリティがあった。クセが強いけど好きな人にはたまらない、というやつだ。
先生の話のクセにすっかりやられてしまっていたぼくは完全に授業崩壊していて気性の荒いチンパンジーの集団にジャックされたような教室の中でただ一人先生の話に熱中していた。あんまり熱中していたから、先生が話をしている間は教室の中には先生と僕だけしか存在していないように感じていたし、チンパンジーたちの集会の最中だというのに教室は深海のように静かだった。
喧騒の中の静寂の中で先生は語り始める。
「今日は小さな世界の話をしよう。世の中で一番小さなものは知っているかな? 生まれたての仔犬、パチンコ玉、腕時計のネジ、それともミジンコだろうか? 原子、電子、中性子だろうか? それらよりもずっともっと小さなものが存在するんだ。それは、ぼくたちが生きているこの世界だ。われわれが生きているこの世界が世の中で一番小さいんだ。これから、それを証明しよう」
ここまで聞いて、あの日のぼくはちょっとがっかりしてしまっていたのだ。だってその証明は予測できるものだったからね。ぼくは少しませたところがあったから哲学には少し心得があったのだ。
単純に考えて、最小単位とされる素粒子から物体が形成されているとすると、その素粒子と呼ばれる粒がどんな形状をもっていたにしても輪郭のある物体である限り、粒と粒の間には空間が生まれるはずである。その空間とはすなわち宇宙であり、われわれの世界だというのだろう。この世はミクロとマクロが環状に一体となっているというわけだ。一番小さい素粒子ひとつひとつのその隙間にある宇宙が世の中で一番小さい。先生はおおかた、こんな話をするにちがいない、とぼくは確信していたのだ。
でも、全然ちがった。
「バスの車内での出来事だった。道路上のくぼみかでっぱりか何か小動物の死骸か定かではないが、何かしらをタイヤで踏みつけたバスは上下に揺れた。当然、これに乗っている人々も上下に揺れた。この揺れがスイミングスクールの帰り、疲労でうとうとしていた少年の脳に異変をもたらした。正確に述べると少年の人生経験、疲労の度合い、今朝食べたヨーグルトの消化具合、これらの要素とともにバスの揺れが少年に異変をもたらしたのだ。バスの揺れはいわば異変をもたらすジグソーパズルの最後の1ピースとなったのだった。少年は一瞬のうちにすべてを理解してしまった。人生の意味を。地球の行く末を。恐るべき陰謀を。長い歴史の中で人類が追い求めていた真理がついに解き明かされたのだ。なんということだ。一刻もはやくみんなにこのことを知らせなくては。行き着く先は滅亡だ。少年はとなりに座っていたサラリーマンに飛びついた。サラリーマンの肩を渾身の力でゆすりながらなにごとかを大声でわめきたてる。サラリーマンは驚き、しばらくは動揺していたがやがて大人の落ち着きをみせ、少年よ何か伝えたいことがあるならばゆっくりと落ち着いてから話すように、と諭した。少年はこれを聞き入れ、一度だけ深呼吸をしてから噛んで含めるようにサラリーマンに言い聞かせた。この世の真理を。通常であればとても信じられぬような内容であったが少年の必死な様子と絶対的な存在である真理のもつ有無を言わさぬ肯定感のためにサラリーマンはその内容を完璧に理解し、完璧に理解したがために発狂した。じっと天井をみつめたまま動かなくなってしまったのだ。これではだめだ。少年は前方に座っていた老婆に話しかける。この老婆は急に白目をむいてぶくぶくと泡をふいてしまった。長椅子シートにふんぞりかえっていた不良は走行中のバスの窓をつきやぶり、体中にガラスが突き刺さりながらも車外へ転がり出てしまった。バス車内に瞬く間に狂気が満ちたようだった。だめだ。出直してから良い方法を考えよう。少年は元の座席に戻ろうとして踵をかえしたが、バスの前方の方で人が争うような物音が聞こえたため振り返った。中年の男と老人が夢中になって黒くて長い棒の奪い合いをしていた。やれやれ狂気の沙汰とはこのことか。少年は冷めた表情で二人の男性の争いをみていたが、やがて事の重要さに気づいて蒼ざめた。中年の男が持っているのは引き抜かれたブレーキペダルだったのだ。その翌日、地方紙の片隅にバス墜落事故の記事が載った。ブレーキの効かなくなったバスは乗客とともに山の中腹から崖下へダイブしたのだ。こうして、この世界の唯一の希望は絶たれた」
先生が話を終えて間もなく授業終了のチャイムが鳴り、予想外の物語にぽかんとしているぼくを置き去りにして先生は教室から出て行ってしまった。なんなんだこの話は……。なんだか釈然としない気分でもやもやしていたぼくは、その日の放課後に初めてヤナセ先生のアパートを訪ねた。
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