最終電車
たとえば、この少女の住むアパートが駅から5km以上距離があったり、少女が決意を固めるまでにあと5分以上時間がかかったりしたのならば、この物語は成立しなかっただろう。しかし、現実に少女の住むアパートと駅との距離は3km程度であったし、少女が決意を固めるまでにはそれほど時間は必要なかった。運命論者はこの事実に感動するのだろうし、ニヒリストはただの偶然だと鼻で笑うだろうが、少女はそのどちらでもなかったから、肩を上下させて息をはずませながらも彼のもとにたどりつけたことに安堵していた。少女……、そう彼女はまだ“少女”であった。この世界には“男”、“女”、“少女”の三つの性別があり、彼女はその中で“少女”に分類される。彼女がもしもあとほんの少しだけ精神の成熟が早く、“女”であったならば青年のあとを追って最終電車にたどりつくことはなかっただろう。“少女”だけが持ち得る、無鉄砲と自己肯定が彼女をここまで運んできたのだ。彼女がその瞬間に“青年に逢いたい”と感じてしまったのならば、それは他の誰にも止められるものではなかった。
まだ電車のドアが閉まるまでには幾分の時間があったが、少女は切らした息を整えるのに専心せねばならなかった。体をくの字におって、ひざに手をついた姿勢で青年の前にいる自らを意識する。心臓が激しく脈打っているのを感じるが、これはアパートから駅まで走ってきたのだけが原因でないことを少女は知っていた。乱れた息が整っても少女はなかなか顔をあげることができない。少女は青年の反応をおそれていた。もし、青年が「なぜ来たのか?」と声を発したのならば少女は絶望のあまり、この世界から消えてなくなってしまうだろう。勇気をふりしぼって顔をあげる。その眼はすがるように青年を見つめ、涙が零れ落ちないのが不思議なほどに潤っていた。人気のない夜のプラットホームにしばしの沈黙が流れ、少女も青年も声を発しないうちに発車のベルが鳴った。
少女の頬から涙が流れた。青年との別れを惜しんだのではなく、自らの無力さに絶望したのだ。青年との最後の逢瀬に何もできない自らに対する絶望が感情の堰をきったのだ。うなだれた少女には涙にくぐもった真暗な世界が見えた。
ふいに、少女の肩に青年の手が触れた。
それから、両肩に強い圧迫を感じたかと思うと、少女は電車の中に引き上げられていた。
電車のドアが閉まる。
青年が少女を電車のなかに引き上げた勢いで、二人は誰もいない電車の中を子供のように転がった。青年は抱きとめた少女にけがはないかとあわてて訊ねる。少女はうつむき加減に首をたてにふって無事を伝える。ほっと一息ついた青年は、うつむいた少女の形の良い耳が真っ赤に染まっているのを見つけると、自分の心臓が強く脈打つのを感じた。
二人はシートに並んで座った。少女は伏目がちな視線を彼に向け、青年の肩の位置が高いのを頼もしく感じた。青年はいかにも真面目な態で少女に「次の電車で送るから」と言う。
少女は軽やかに笑いだす。
「この電車は最終電車ですよ」
少女の笑い声に青年の笑い声が重なった。
二人を乗せた電車は夜の静寂を進んでゆく。