絵描きの一生

 病床の絵描きがあった。薄暗い病院の片隅のベッドで横たわる彼は孤独だった。人の目があったならば、彼は長患いの末に医者からも見放された存在なのだと見られたに違いない。しかし、その弱りきった外見からは意外に思われるが、彼が入院してからはわずか数週間しか経っていない。そして、医者から診断された彼の病は軽いものであった。

 彼はじっと目をつむっている。眠っているのではない。ただ、目をつむっているのだ。想像力を巡らせているのでも、気まぐれの戯れでもなく、何も見たいものがないから目をつむっている。実のところ、完全に誤りとはいえないまでも医者の診断は正確ではなかった。彼は身体の病のみならず、心の病も患っていた。医者が見抜けなかった病の方は重く、彼は常に泥沼底の気分だった。

 絵を描くのが好きで、ずっと絵を描いて暮らしていたが、若いころはなかなか絵が売れずにいつも生活に困っていた。家族があり、妻と娘とともに暮らしていたが、妻は若くして過労で死に、娘は絵ばかり描いている父親に愛想を尽かしてどこかへ行ってしまった。やっと絵が売れてきたころには、絵筆をもつ手は皺だらけとなり老人といえる年齢になっていた。体もすっかり弱ってしまい、病に倒れて入院を余儀なくされた。もはや絵を描く意欲も薄れ、いつ死んでも構わないといった心境だった。

 そんな絵描きの様子を見かねた看護師は、ある日、絵描きに一通の手紙を持ってきた。その手紙は娘から送られたものだった。


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『あなたが病床についていることを聞きました。でも、わたしはあなたに会いにいくつもりはありません。

わたしはあなたを恨んでいます。

わたしの知る限りあなたはずっと絵描きでした。お母さんの夫でなく、わたしのお父さんでなく、あなたはずっと絵描きでした。お母さんよりわたしより何よりも絵を大事にしていましたね。あなたは知っていたのでしょうか? お母さんが家計を助けるために朝早く起きて、夜遅くまで働いていたことを。お母さんの手があかぎれの傷だらけだったことを。ぼろ服を着ているせいでわたしがいじめられていたことを。お母さんがいない寂しさで毎晩泣き疲れて眠っていたわたしのことを。それでも、お母さんはあなたのことを悪く言うことはなかった。

あなたはなぜ絵を描くことを辞めなかったのでしょうか? あなたが絵を描くことがお母さんを苦しめることに気づけなかったのでしょうか? それとも知ってて絵を描き続けたのでしょうか? お母さんは決してあなたに絵描きを辞めろとは言いませんでした。でも、心のうちでどう思っていたかは想像できるはずです。

先日、あなたのアトリエを訪れました。復讐のためです。あなたが一生をかけて描き続けた絵を。お母さんを殺した絵を燃やすために。でも、わたしは絵を燃やすことはできませんでした。わたしはあなたの絵を見たことがなかったから知らなかった。あなたの描いた絵のモデルは、すべてお母さんだったのですね。

でも、やっぱりわたしはあなたを許すことはできません。あなたが絵を描き続けることをお母さんが望んでいたとしても、お母さんの絵を描くことがあなたの愛情表現だったとしても、お母さんを死なせてしまったのは、あなたが絵描きを辞めなかったからです。

だから、せめて絵を描き続けてください。ずっとお母さんの絵を描き続けて。それが死んだお母さんにできる唯一のことだと思うから。わたしのお願い、聞いてくれるよね?

お父さんへ』

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 手紙を読み終えた絵描きは、病身を強いて娘のもとへいこうと手紙の送り元を探したがその記載はどこにもなかった。手紙を届けてくれた看護師に聞いてみたが、彼女はなぜか教えるのを渋った。絵描きは涙を流して看護師にすがりつき、ようやく聞き出せた事実に愕然とした。娘は数日前に死んでしまったということだった。手紙は遺書だったのだ。


 退院後、絵描きは妻と娘が眠る墓の近くにアトリエを建てた。毎日、絵を描き、毎日、墓の前で絵をかざす。その絵には絵描きと妻と娘が幸せに暮らしている様子が描かれていた。娘は喜んでいるのだろうか? 絵描きはどうしても確信がもてず、来る日も来る日も絵を描いては墓の前でかざし続ける。

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吉村トチオ
最後まで読んでくれてありがとー